2009年9月30日水曜日

工事近況

早、山は朝晩 完全にストーブです。
紅葉もチラホラ始まっていますよ。

あさって、下山します。
次回の入山はいつになるのか 今は分かりません。


今回 ロフトデッキの巨大ベンチの防水用トタン板を
実家の近くにあるジョイフル本田(千葉ニュータウン店)で
調達しようと思っております。
ブルーシート防水は止めて、いきなりトタン板を張って 
接合部分は強力な防水テープで、と考えております。

東側の3間もある超ロング「霧よけ」と
南デッキの雨漏りがする透明屋根材の入れ替えも
何と ふってわいたような村の仲間の協力を得て終了したのです。
これで雨漏りは完全に無くなりました。雨漏りがないというのは
実に気分がよくハッピーなものです。

屋内壁の仕上げ材ですが、
石膏ボードにペンキ、というのは意外にも相当面倒なんだそうです。
(そうとは知りませんでした)そんなに面倒なら、いきなり塗れて、
しかもとても美しい上に健康にもよい漆喰(シックイ)で
いいではないか、と今考えている所です。

パソコンも車も変わりました。
車はニッサンAD、ライトバン、貨物自動車、
もちろんパソコンも車も 格安の中古です。

今日はこれから 真冬の凍結防止のため、水道管を
断熱材で巻く作業をします。


漆喰というのは
人類が古代から使用している とても優秀な完全自然素材です。
「白く塗った墓」の白さの正体は多分 漆喰なのでしょう。

ある記録

ある人が月に行きました。
だから確かに 人類は月に行ったのです。
これもやはり 世界の公認記録です。
(しかし、疑う者もいます)

ここに もう一つの記録があります。
それは、 
ある人が
・人生に悠々と打ち勝ち
・死を粉砕し、
・時空と物質を超越した 
という 天地の公式記録です。

時空と物と人生はサタンの仕事場であり、
死は サタンにとって、彼の総ての力を引き出す 
虎の子の金庫です。
だから今やサタンは「人の子」において
その虎の子は爆破され 職場が壊滅したのです。

「サタンよ、あなたはこれからどうするの、
後はもうウソをつくしかないね。」

2009年9月29日火曜日

サウロのキリスト者破壊活動

当時 キリスト者達をおそった破壊的環境は 相当部分、サウロの
「ナザレ人一派」に対する激しい敵意によってもたらされた
と言っても過言ではないでしょう。
しかし賛美します。以下のいくつかの聖句の中にさえ、既に破壊現象
から萌芽する復活現象を見るのです。

・「人々はステパノを石で打ち殺した。証人達は自分達の着物をサウロ
という青年の足元に置いた。」(使徒7の57)
・「サウロはステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの
教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤと
サマリやの緒地方に散らされた。・・サウロは教会を荒らし、家々に
入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。他方、散らされた
人達は「その言葉」を述べながら巡り歩いた。」(8の1~4)
・「ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は
フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行った・・・主の
御手が彼らと共にあったので、大勢の人が信じて主に立ち返った。」
(11の19、21)

さて、先先回に述べた エルサレム教会の中にあって キリスト者の中に
存在し始めたであろう「エルサレム的固定、安住」志向に対して、
何と神は たちまちの内に破壊的と言えるほどの環境を許されたのです。

しかしながら かように強制的な「脱エルサレム」をさせられた
キリスト者達に対するサウロの情け容赦のない破壊行動は 
それでも止むことはなかったのです。

・「サウロは、なおも主の弟子達に対する脅かしと殺害の意に燃えて、
大祭司のところに行った・・それは「この道」の者であれば男でも女でも
見つけ次第 縛り上げ・・投獄するためであった。」
(9の1、2)

2009年9月28日月曜日

破壊的環境

先回述べた「破壊的環境」は殆どの場合 神からでなく、サタンから来ます。
しかし神はその破壊的環境を復活のチャンスとされるのです。この事実を
「神はサタンの破壊的環境を敢えて許されることもあり得る」と表現する
ことも可能でしょう。正にこの点にこそ 旧新約聖書全般を貫いて見られる
神の計り知れない知恵があるのです。

神をまだ知らない人の場合、彼は自分に訪れる破壊的環境を 
サタンの手から受け入れるしか方法がありません。しかしキリスト者
には 悲劇的な環境でさえ「神の手から受け入れる」と言う 
すばらしい方法が残されているのです。


その受け入れ方には二つあり、一つは命による場合であり、他は死による
方法です。(しかしキリスト者の場合、死は命に至り、命は死に導く
のですから、両者は一つであるとも言えます)
前者の場合、あなたは立ち上がり、環境の背後に潜むサタンの策略に
キリストによって対抗しなければなりません。(エペソ6章)

後者の場合、あなたはその環境を神の手からいただき、あなたが既に
共にあずかっているキリストの死の原型の中で キリストの死を
その環境と自分に適用し、その環境と「その事態の中でどうする
ことも出来ない自分」に対して死ぬのです。そうするならば、
あなたは必ずキリストと共に復活するでしょう。

その方法によるならば、例えば
「敵にそそのかされた失敗」による悲しみでさえ 神のみこころにそった
「素晴らしい悲しみ」と変化するでしょう。それは 悔いのない救いに至る
悔い改め という「復活現象」をあなたの中に生じさせるからです。
しかし(信仰を機能させない)悲しみはただ、(復活のない)死と 
更なる不信をもたらす結果となるでしょう。(Ⅱコリント7の10)

2009年9月27日日曜日

配給事件とステパノ事件(3)

「ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は
フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行った。・・・
主の御手が彼らと共にあったので、大勢の人が信じて
主に立ち返った。」(11の19、21)

神の意図したエクレシアのあるべき姿は 安定、固定的、そして
エルサレム的ではなく、流動的、拡散的です。聖書と他の記録を
見るとき、人の根強い固定願望に対抗して 神は破壊的とさえ
見える方法を用いて、その御こころを現されたことを見ます。

ここで間単に ステパノ事件が 神によってどう用いられたのかを
箇条書きにします。
①普通のキリスト者の脱エルサレム、流動的、拡散的生活によって、
神のことばの大いなる前進を見た、
②その結果、エルサレムから遠く離れた異邦の地、アンテオケが
更なる脱エルサレム、拡散の基点とされた、
③パウロに対して極めて甚大な影響を与えた、
④パウロの伝道は 普通のキリスト者こそ主役であることを知らしめ、
彼らをして脱エルサレム的、脱ユダヤ教、脱この世、そして流動的、
拡散的にさせることであった

パウロの死後、数年を待たずして、エルサレムは町も人も徹底的に破壊
尽くされ、キリスト者のみならず、ユダヤ人でさえ、総てエルサレムから
追放され 世界中に拡散されることを神は敢えて許されました。

人の切望はこの世に根付くこと、固定、安定です。
しかし神は人を地に安住させません。キリスト者ならずとも 
わずか100年間 自分をこの世に固定することさえ至難の業です。

2009年9月26日土曜日

給食事件とステパノ事件(2)

給食事件の後 エルサレムにおいて、神のことばは益々成長
しました。(この事実をルカは僅か一つの節の中で述べています。)
しかしここにさえ一つの誘惑、問題があり得るのです。
それは 生来の人の魂が持つ繁栄、安定化、固定化への「根強い」
願望です。しかしながら、何故それらの願望が神のみこころではない
のでしょうか。キリスト者の繁栄、安定化、固定化を どうして神は
喜ばれないのでしょうか。

何故なら、それらは総てキリスト者をして この地に強く根を張る者、
黙示録の言う「この地に住む者」としてしまうからです。
十二使徒をいただき 多くの信者を有する中、役割分担の確立、
「人間への権威付け」等にともなう繁栄感は 彼らに もしかして
「この世の春」の到来のようなものを感じさせたかも知れません。


しかし、エクレシアはそうであってはならない筈です。それは常に
「小さなからしだね」という「来年」への希望さえ持つことのない
一年草の命に留まるべきです。

しかし、なんと言うことでしょう。神の敵はいつの間にか 神の御わざの
「かかと」に忍び寄り その一年草の野菜をいつの間にか 天に向かって
きつ立させ、空中の無数の生き物を宿らせる大きな木にまで、肥大変質
させようとしたのです。それは地上の人々の目にさえ直ちに
「これは天国」と見える 葉の生い茂る外観を有するでしょう。

しかし、私達はそうであってはなりません。地上に現れる
エクレシアにある天国は ただ澄んだ目によって捜さなければ
発見出来ない、純粋な隠された小さな命 「小さな群れ」であるべきです。

2009年9月25日金曜日

配給事件とステパノ事件

エルサレムに出現したエクレシアに ある問題が発生した際、
十二使徒は言いました。(使徒の働き6章)
「私達が神のことばを後回しにして、食卓のことに仕えるのは
よくありません。・・・私達はその人たちを この仕事
(食卓のこと)に当たらせることにします。
そして私達は、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」
(ステパノはその際、その食卓担当者として指名されました)

当然 これらのことばは聖霊に確証され聖書に記載された神のことばです。
そうであればこそ、このような言葉に接する時、私達はたやすく
権威主義を伴った画一的固定観念を築き上げてしまう可能性が
あるのではないでしょうか。

しかし神のことばは 単なる文字ではなく、一面エクレシアと共に 
ブドウの木の枝先端の 繊細なツルのように日々生き生きと成長して
行くべきものです。

従って神は「配給事件」の後、敢えて直ちに次の7節において
「こうして神のことばは、ますます成長し」とルカに記述させたのです。
(7節)

更にそれに留まらず 次の8節以後、聖書はあの有名な「ステパノ事件」を
直ちに見せているのです。そこにおいて神は 食卓の奉仕ではなく、
ステパノをして 極めて重要なみことばの奉仕に従事させたのです。

ここに確かに 絶対的にしゃくし定規でない聖霊の働きを見ます。
従って 神のことばを語る専門家などあろうはずがありません。

2009年9月24日木曜日

主イエスと私達

彼の完璧な贖いの故に 既に今でさえ
神の目に 私達は主イエスと全く同じです。

しかし、区別はあります。
彼は私達がいなくとも 永遠に聖です。
しかし私達は今でさえ 
もしも彼がいなければ直ちに汚濁と滅亡です。

更に
彼は永遠に「ほふられたばかりと見える子羊」です。
彼の体の傷跡はとこしえまで消えることはないでしょう。
しかし、私達は永遠に完全であり、無傷です。


昨日、ベンチの北側の一部が姿を現しました。
この「棺おけ状の」大きな箱の上部をビニールシートで覆い、
その上にトタン板をかぶせ、さらに人工芝で仕上げます。
腐食を防ぐ為の防水というのは なかなか難しいものです。

2009年9月23日水曜日

冬が来る前に

冬が来る前に、冬支度の工事と外の工事をする積りですが
結構それだけでも大変です。ざっと考えて見ても
・ロフトのデッキの巨大ベンチを作る事と床のメンテナンス
・水道管の保温のため、管を断熱材で包むこと
・居間の西壁を「ぶち開けて」採光用の窓を二つ設置すること
等があります。
やれやれ、内装はまたまた延びることになりそうです。
今日、午前は小雨の予報、工事は午後になるのかな。
PS:
巨大ベンチ、昨日5mと書きましたが、計ってみると何と
9・1mもあったのです。

神のことば=エクレシア

使徒行伝を見ると
「こうして神の言葉は、ますます成長し」
「主のみ言葉は、ますます盛んになり広まっていった」
「こうして、主の言葉は驚くほど広まり、ますます力強くなって
行った」などの記述が、この書の要所要所に見られます。
昨日の「交わり」の場合のように ここにおいても「神の言葉」や
「主の言葉」の所に「エクレシア」をはめ込むことが可能のようです。

それでは、この「神の言葉」とは具体的には何でしょう。
それは 今日私達が見聞きする聖書やメッセージのようなもの
でないことは明らかです。当時一般の兄弟姉妹の手の中には
旧約聖書さえなく、当然 新約聖書はまだ存在しませんでした。
それではその無数の広がりを見せた主の言葉とは具体的には
何なのでしょう。それは一般の兄弟姉妹の日々の生活の中に存在した
無数の「交わりの言葉」以外の何ものでもないと思われます。

従って その当時「広まって行ったもの」と言うのは「エクレシア」
なのであり、実際的には「交わり」の中の「神の言葉」であったのです。
エクレシアの実質とは「今日の不思議な天地におられるキリスト
そのお方」であり、そのキリストは具体的には 普通の兄弟姉妹達
による「交わり」の中の「神の言葉」として生き生きと表現されたのです。
それこそがキリストのからだ、エクレシアの実際的な時空への表れです。

当時、神の国 即ち「王キリストの聖なる支配の領域」は
名も無き無数の兄弟姉妹間の交わりの中の神の言葉として
「日々成長し、驚くほど広まり、力強くなって行った」と思われます。

2009年9月22日火曜日

今日から巨大ベンチ作りです

昨日の作業はコーキングでした。それはゼリー状のもので 塗布すると
次第に硬くしまり、隙間などの ちょっとした防水に極めて効果的です。
以前と違い今その性能は相当よくなっているようです。とても安価であり
取り扱いも簡単なので、家庭での使用も十分可能です、お試しあれ。

防水工事は昨日でいったん中止し、今日から、眺めのよいロフトの
デッキに長い巨大なベンチ(5mはあるでしょう)を設置する工事に
かかろうかなと思っています。今日は曇天、少し冷たい風が吹いています。

この交わり=エクレシア

コンスタントな聖書の通読は必要です。新約の場合、
今「使徒の働き」を読んでいます。


皆は心を一つにしてソロモンの廊にいた。他の人々は一人も「この交わり」
に加わろうとしなかった。(使徒5の12、13)

ここの「この交わり」を「エクレシア」という言葉に代えて そこに
はめ込んで見ても そんなに遜色がないことが分かります。ですから 多分
その当時、「エクレシアの実際的内容」は「この交わり」であった と言える
でしょう。更に「その交わり=エクレシア」という大胆な公式さえ可能かも
知れません。(当然、交わりはお付き合いやおしゃべりではありません)


さて、「その交わり」と「他の人々間の付き合い」の間には ある壁
のようなものが厳然として存在していたようです。その壁を含む内側は 
他ならぬ 今は目には見えない「その霊なるイエス御自身」でした。

その感知できない霊なるイエスを「低くされた心と信仰」によって
捕えた人々は、結果として何の無理もなく「自分もその交わりの中にいる」
と「感知できた」のです。しかし不思議なことに 他の人々は「彼らを尊敬
していた」にもかかわらず そこに名状しがたい ある違和感を覚えざるを
得ませんでした。

実際的レベルにおいて「その見えないエクレシアの範囲」こそ「聖なる領域」
であり、キリストのからだに他なりません。イエス御自身の中におられる
神だけが 唯一聖であられるからです。残念ながら、この範囲・境界ライン
について論述し尽くす完全な人の言葉を私は知りません

2009年9月21日月曜日

霧よけの防水工事

おととい完成した「霧よけ」をトタンでカバーしてもらうべく昨日
業者に来てもらったところ、何と何と私のミスで、その施工は全く不可能
であることが判明したのです。これは相当ガッカリです。なぜならそれは 
完成したものを総て解体し、一から全部やり直すことを
意味しているからです。

しかし、その時、業者に高い金を払うことなく、かなり難しいとされる
防水工事を可能にする ある施工方法に気がつくことが出来たのです。
これは私にとって極めて感謝なことでした。


神はラバンに
「あなたはヤコブと、ことの善悪を論じないように気をつけよ。」と
語られました。私達は「ことの善悪」でなく、神の御こころと
「神の御こころの人」に気をつけるべきです。


ルカ24の31には
エマオに向かう二人の弟子に復活のイエスが現れ、いろいろと語られ
ましたが、その後「イエスは、彼らに見えなくなった」と書かれています。
ここで大切なことは、 
イエスは彼らに「見えなくなった」だけであり イエスの臨在が彼らから
奪い取られたわけではない、ということです。無くなったのは「臨在感」だけ
であり「臨在の事実」には何の変化もありません。
見よ、私は世の終わりまで「いつも」あなた方と共にいるのである。
(マタイ28の20)

2009年9月20日日曜日

高所作業

聖書は不思議です。
特に新約聖書、その「奥義的啓示」においては。
しかし、それが真に神がなさったことであるならば、
何の不思議がありましょう。

とてつもなく不思議な「今日のキリスト」よ、しかし
「神の能力」を思うとき、そのことに何の不思議がありましょう。
キリストは不思議です。しかし実は何の不思議もないのです。


聖書は驚くべき書物です。互いの連絡もなく、時空を超えて多くの
聖書記者が実に多種多様なことを自由に書いています。
しかし、そこには何の矛盾もありません。
何故なら、真の聖書記者は神ご自身なのですから。

だから、私たちにも「人間の」指図など全く不要です。
真のエクレシアに身をおくだけで、私たちに何の矛盾もないでしょう。
何故なら「私達を書いておられる」のも ただ一人の同じ神なのですから。


昨日、何と東外壁の長ーい「霧よけ」工事(3間)が終わってしまいました。
これは高所なので、命綱をつけなければならないかなり危険な作業です。
もう危険な作業は全部完了、と実は安心していたのですが、
これからも もう少しは必要のようです。

今日は東デッキ工事をやろうかな、と思っております。ここもかなり
長い間 ほったらかしにしていたので相当腐食が進んでいるのです。

今日もよい天気、神に感謝です。

2009年9月18日金曜日

今日の工事

「西デッキの補強工事」はみごと失敗でした。
また一から出直しです。

昨日はすばらしい天気のもと、懸案の東の外壁の上端に霧よけ
(ひさし)を作る為の足場作りに取りかかりました。
(立場がないと何も出来ない)
きのう私のパソコンのために来てくれたイモクボ氏の
アドバイスもあり、これが意外と簡単、
何と今日中には完成しそうなのですよ。

「案ずるより、生むが安し」とは正にこのこと、
人間、やはりやって見るものですねー。

私たちは一つです

父よ、私たちは一つです、

子よ、私たちは一つです、

聖霊よ、私たちは一つです、

古今東西の兄弟姉妹よ、私たちは一つです、

そして、
今「天地に存在する不思議な ただ一人の人」よ、

私たちはあなたと一つです。

これらは総て、御子キリストの「あの功績」の故、

決して揺れ動くことのない御ことばの故にです。

(ヨハネ福音書14章~17章)

2009年9月16日水曜日

山におります

きのう入山しました。

山の冷た過ぎる空気が足元に忍び込んで来ます。

次回の下山は10月2日あたりでしょうか。
何も無ければの話ですが。

しばらく大工仕事にかかる積もりです。随分怠けた仕事が
山ほどたまっているからです。

入院しているケンは存外よい状態でした。
実は これからのテーマは、どうやって彼を親元から離すか、です。
親はこれから年々確実に衰えるわけで、その算段は一日も早い方が
よいのです。

今用いているのは私にとっては新しい富士通のパソコンです。
嬉しいことに実に快調です(当たり前?)。
確かにメールとインターネットが無いのは不便です。しかし
私のこれからの「パソコンライフ」はどうなって行くのでしょう。

聖霊を通して 今主は明らかに彼の業をこの日本においても行われて
おられると信じます。私も油断する(油・聖霊を断つ)ことなく
彼に付いて行きたいものと思います。

そうそう、あの台湾の89歳の姉妹・楊さんがしばらくぶりで
電話をくれましたよ。相変わらずの「あの元気さ」でした。この所、
台湾は ホンとにいろいろと大変で、失礼しました、とのことでした。
そのうちまた 日本にいらっしゃるかも知れませんよ。

それでは、これから西デッキの補強工事にかかります。
家が完成しないうちに 腐食に対するメンテナンスなのです。

2009年9月6日日曜日

永遠の命とは 知ることです

神の命は 聖書の中でしばしば「永遠の命」と呼ばれています。
この「命」という言葉は原文ではゾーエであり、それは更に高い命、
或いは霊的な命を意味します。総て主イエスを信じる人は 
信じるやいなや再生され、永遠の命を受けます。

永遠の命の役割、機能は何でしょうか?
イエスは言われました。
「永遠の命とは、唯一の真の神でいますあなたと、また あなたが
つかわされたキリストとを知ることであります。」(ヨハネ17の3)

ですから、永遠の命とは、信者が享受する祝福であるだけではなく、
霊的な能力、機能なのです。永遠の命がなければ、私達は絶対的に
神を知ることは出来ず、また主イエスを知ることも出来ません。神を、
キリストを、そして霊的真理を 直覚によって真に知ることは、人の
生来の知性によることはなく、ただ神の命に依存しているのです。

さて、人の中に入った「ホンの僅かなこの命」は 徐々に成長し、発展し
そして遂にはキリスト者をして 真に霊の人へと至らせることが出来ます。
人の再生の後、神の目的の総ては、ご自身の霊を通して、多くの人が
旧創造に属する総てのものを取り除くことです。そのように、人の中での
神の総ての働きは 完全に霊の中にあるのです。


山から下りたら、パソコンが全く動きません。
もうダメだとあきらめていたら昨晩 再び動き出しましたのです。

冷涼過ぎる山から下りて見ると 下の空気は「あ、暖かくていいな」
でした。多分14日まで実家にいます。

2009年9月4日金曜日

☆「死んでいる」の意味


前段の
「神の新しい命の霊を受けない者は、永遠に死んでいるでしょう。」について:
これは「その人の霊はまるで死人のように 神や真の命に対しては全く反応
しない、という意味です。私達は神の命をいただく前 神や真の命に
対しては全く何の反応も出来ませんでした。聖書ではそれを「死んでいる」or
「死人」と表現するのです。しかし、サタン・罪に対しては活発に生きていた、
と言えるでしょう。

それでは 今はどうでしょうか。
感謝します、今私達は 神に対しては生きており 
罪やこの世に対しては死んでいるのです!


山はとても寒くなりました。朝晩はストーブをつけています。
今日 多分8時頃の下山となるでしょう。
ケンはまだ入院中です。その病状はいつ好転するのでしょうか。

再生における聖霊の働きの二面(2)

神の命が 人の霊の中に入る時「酔って麻痺したような状態」にあった
私達の霊を生かします。かつては、人の霊は「神の命から遠く離れて」
(エペソ4の18)いましたが、今は生かされているのです。ですから、
たとえ「体は罪の故に死んでいても、霊は義の故に生きているのです。」
(ローマ8の10)

私達がアダムにあって持っていたものは死んだ霊であり、私達が再生の
時に受けたものは生かされた霊です。その時 私達はアダムにあって
失ったものを得ただけではなく、アダムが絶対的に持っていなかった
神の命をも受けたのです。

以上のことを見るならば、私達は自己改善、善行の勧め、リバイバル、
後悔などの むなしさを理解するようになります。人が自分で何を
行おうとも、自分の霊を生かすことは不可能であり、また「新しい霊」
を受けることも出来ません。彼がどれだけ改善しようとも 死んでいる
ものは死んでいるのです。どれだけ彼が修復しようとも、古いものは
古いのです。人は上からの新しい命を受けなければ、どれだけ熱心に
宗教を学び 道徳を実行しても、自分の霊を生かすことも、
新しくすることも出来ません。

神の新しい霊だけが、人の古い霊を生かすことが出来ます。自分の霊を
生かすことを願っても、神の新しい命の霊を受けない者は、永遠に死んで
いるでしょう。再生されていない人は、キリストとは絶対的に何の関係も
ありません(ローマ8の9)。ですから「キリスト信者と言われる人」は皆 
自分は本当に再生されているかどうかを自問するべきです。「神の勝った
命」を受けている人達だけが、神の子供です。神の子供でありながら、
神から生まれていないということは理屈に合わないことではないでしょうか。

2009年9月3日木曜日

再生における聖霊の働きの二面

再生は、一方では人に新しい霊を受けさせ、他方では人の古い霊を
復活させます。再生に関しては、エゼキエル36の26は「私は新しい
霊をあなた方の内に授け」と言い、ヨハネ3の6は、「肉から生まれる
者は肉であり、霊から生まれる者は霊である」と言っています。

この二箇所で言われている霊は、神ご自身の命を指しています。何故なら、
これは私達が本来持っていた霊ではなく、再生の時に 神によって与え
られた霊であるからです。この新しい霊は神聖なものであり(Ⅱペテロ
1の4原文)「罪を犯すことが出来ない」ものです。(Ⅰヨハネ3の9)

所が、人が本来持っていた霊は生かされ、生まれたとは言え、依然として
汚されているかも知れず(Ⅱコリント7の1)、聖別される必要が
あるのです。(Ⅰテサロニケ5の23原文)


この箇所は少し分かりにくいようです。
私は次のように整理しますがどうでしょうか:

御言葉によると、再生の際、聖霊の働きには二面があります。先ず、
人の死んだ霊を生かします。しかし、それでは不十分です。何故なら
「人が本来持っていた霊は依然として汚されているかも知れず
(Ⅱコリント7の1)聖別される必要がある」からです。(Ⅰテサロニケ
5の23原文)ですから、神は次に「新しい霊をあなた方の内に授け」ます。
しかしながら、実際にはこの二つの聖霊の作業は再生の瞬間 
同時に行われます。ところが、聖別の作業はそれ以後も継続して
必要とされる筈です。


今日は下山の為の準備をします。下の生活で注意しなければならないのは
運動不足です。それで、今回 小屋にある粗末なマウンテンバイクを
下に持って行こうかなと考えております。
今日、阿武隈は雨模様です。

2009年9月2日水曜日

再生の必要

しかし堕落した霊としての人には体があり、人の堕落は人を肉的なもの
としました。創世記6の3において 神は「真に人は肉である」とさえ
言っておられます。「He indeed is flesh.」(ダービー訳)

この世の宗教も倫理も文化も法律も この堕落した霊を改善することは
出来ません。今や人は 堕落した肉となってしまったのですから、
何ものも再び人をして本来の霊にならせることは出来ません。

ですから人にとって再生、霊の再生は絶対的に必要なことです。
ご自身の血を流し、私達を罪から清め、私達に新しい命を与えられる
神の御子だけが、私達を神へと連れ戻すことが出来るのです。

罪人は主イエスを信じる時に再生されます。神は罪人に ご自身の命
(創造されたことのない命)を与え、罪人の霊を生かします。罪人の
再生は霊の中のことです。

神の総ての働きは、人の霊の中で始まり、中心から周辺へと至ります。
それは外側から内部へと働くサタンとは根本的に異なっています。


「ご自身の命(創造されたことの無かった命)」について:
それはヨハネ3の16で言う「永遠の命」です。ですから永遠の命とは
「エンドレスに続く命」にとどまらず「創造されることのなかった
神そのものの命」を言います。

永遠とは、決して今私達が慣れ親しんでいるこの時空のエンドレス状態
などではありません。時空はある目的の為に神によって創られた単なる
被造物の一体系であり「四隅を持つ」限定された世界に過ぎません。
「真正な」私が、即ち私達の内側にある再生された霊が 心から求めている
ものは ただ物質からなる そのような「矮小な世界」ではない筈です。

「永遠の命とは 単にエンドレスに今の命が続くだけであるならば、私は
そんな命は要らない」とある兄弟が言われたのは けだし名言です。


壁工事、結構楽しいものです。あさって、下山します。

2009年9月1日火曜日

堕落した霊(2)

明けの明星としてのルシファー(サタン)は神によって創造され、彼は
神と直接 交わることの出来る卓越した霊でした。

ところが彼は堕落し、暗闇の権威を持つリーダーとなり 神と神の総ての
徳から分離されてしまいました。しかしながら彼は、決して その分離の
故に、彼の存在を失ったわけではありませんでした。彼は彼が持つべき
本来の神との正常な関係を失ってしまったのです。サタンが堕落の故に
失ったもの、それは唯一 彼が本来持っていた神との正しい関係でした。

それでは人はどうでしょう。人もサタンと同じように暗闇の中に落ち込み、
神から分離されました。にもかかわらず、サタン同様 人の霊は依然として
存在しております。現在、人の霊は神から分離されているという理由の
故に 神と交わることは不可能であり、自分の霊が自分全体を支配する
ことも出来ません。要するに 人の霊は「死んでおり」その正常な機能を
失っているのです。

ここに一つの厳粛な事実があります。それは罪深い天使長の霊が永久に
存在するように、罪深い人の霊も永久に存在し続けるということです。


台風一過、今時折吹く少し強い風も爽やかな、秋晴れの朝を迎えました。
今日も 居間の壁工事を頑張るつもりです。