神の命が 人の霊の中に入る時「酔って麻痺したような状態」にあった
私達の霊を生かします。かつては、人の霊は「神の命から遠く離れて」
(エペソ4の18)いましたが、今は生かされているのです。ですから、
たとえ「体は罪の故に死んでいても、霊は義の故に生きているのです。」
(ローマ8の10)
私達がアダムにあって持っていたものは死んだ霊であり、私達が再生の
時に受けたものは生かされた霊です。その時 私達はアダムにあって
失ったものを得ただけではなく、アダムが絶対的に持っていなかった
神の命をも受けたのです。
以上のことを見るならば、私達は自己改善、善行の勧め、リバイバル、
後悔などの むなしさを理解するようになります。人が自分で何を
行おうとも、自分の霊を生かすことは不可能であり、また「新しい霊」
を受けることも出来ません。彼がどれだけ改善しようとも 死んでいる
ものは死んでいるのです。どれだけ彼が修復しようとも、古いものは
古いのです。人は上からの新しい命を受けなければ、どれだけ熱心に
宗教を学び 道徳を実行しても、自分の霊を生かすことも、
新しくすることも出来ません。
神の新しい霊だけが、人の古い霊を生かすことが出来ます。自分の霊を
生かすことを願っても、神の新しい命の霊を受けない者は、永遠に死んで
いるでしょう。再生されていない人は、キリストとは絶対的に何の関係も
ありません(ローマ8の9)。ですから「キリスト信者と言われる人」は皆
自分は本当に再生されているかどうかを自問するべきです。「神の勝った
命」を受けている人達だけが、神の子供です。神の子供でありながら、
神から生まれていないということは理屈に合わないことではないでしょうか。
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