2009年3月31日火曜日

あるメール交換から

今、ブログを読みました。
柄沢兄弟のこと、
読んでいて涙が止まりませんでした。
兄弟が、主を受け入れられた時、
心から主に祈るとき、主はそれを聞き届けて下さること、
主は生きておられ、私たちの声に応じてくださること、
みなとても感謝です。
必ず、柄沢兄弟のことを家族で祈ります。

実は私の夫も
まだ完全に主を受け入れていると言う訳ではないのです。
でも、主がその時を、今から準備されているのだと信じます。
人が救われること、それに勝る喜びはないのです。


感謝です。
ゼヒゼヒ、柄沢登兄弟の為にお祈り下さい。

佐倉、酒々井の交わりには、確かに今「主の生ける何か」が
流れているようです。その中の一人の姉妹が言われました:
状況はとても過酷なのですが、何故か私達の間に、人からではない
不思議な深い平安があるのです。いつも顔を見合わせる時、
必ず言うのです「この平安は一体何でしょう」と。

さて、登さんの為に祈る時、その祈りよって、
遠くにいる私達も、彼らの交わりそのものの中に、
今直ちに入りこむのではないでしょうか。
そしてその交わりは同時に、父なる神と
主イエスキリストとの交わりなのです。(Ⅰヨハネ1章)
この交わりこそが、エクレシア・教会の
実質、本質そのものに違いありません。

この尊いエクレシアの交わりが、
今苦しみの只中にある登兄弟の奥深い霊にも達し、
そこから神御自身の何ものかが、兄弟の中へと
確実に伝達されるに違いありません。

このエクレシアの真実な交わりを思うとき、
私達はただ、神を賛美するだけなのです。
なぜなら、それはみな
神御自身の真実から、だからです。

だから主よ、登兄弟を、そしてかれの肉体を
あなたの「その真実」の中にゆだねます。

ある試み「腑に落ちる」

A:人への神の直接的な語りかけは、人の霊以外の場所に対して
行われることは絶対にない。他の、人の機能(魂や体)への
ダイレクトな感覚はむしろ神の敵からの感覚であることが多い。
だからキリスト者は「人の霊」に対する神からの「感覚を超えた
かすかな感覚」をキャッチしなければならない。
これはキリスト者にとって極めて重要かつ、
実際的実践的な日々の課題である。」

B:しかし、とは言っても、上記のことの実行は容易なことでは
ありません。何故ならこれを実行する為の基礎部分には、
単なるハウトゥでは片付かない多くの「深い学び」が
要求されているからです。

しかし私は、もしも主が許されるのであれば、
ここである試みをして見たいと思うのです。それは今述べたBと言う
「深く重い学び」はとりあえず脇に置き、いきなりAに入り込んで見たら
どうなるのか、と言うことです。(実際経験では、AとBとは、後になり
先になりして進んで行くものでしょうが・・。)


そこでここに、ある兄弟の体験を紹介します。
しかし当然のことながら私は、この兄弟の記述と経験が、神の真理に
照らした上で、全く総て正しいと言いたいのではありません。
これはあくまで、彼独自の追及と実行に過ぎません。
また「彼にはBの学びがない」などと言うつもりも毛頭ありません。

ただ確かに言えることは、この兄弟の体験は、私達にとって大いに
参考になり、そして多分私達の助けにもなると思われることです。
少なくとも今この兄弟には、ややもすると私達に見失われがちな
主を思う心と若さ、そして実践力があるのです。これは貴重な要素
であることは明白です。主は御自身の為に「夢中になっている魂」を
愛されることはいつの世においても否定出来ない事実なのです。
 

N兄弟:
いわゆる「腑に落ちる感覚」というものが一番大事かと思います。
魂の部分で「こうだ!」とか、「こういう啓示を受けた」と思っても、
内側がざわめくとき、それは決して上手くいきません。

しかし逆に、魂の部分で「嫌だな」と思っていても、内側の霊に
深い安息と、時として沸き立つような喜びがあるとき、それは必ず
上手く行きます。魂の部分と内側が同調して、魂も内側も深い安息と
沸き立つような喜びがあるとき、それは絶対に上手く行くのです。
それを私はまとめて「腑に落ちる」と言っています。

以上が、私が短い「経験測」より導き出した答えです。霊の語りかけが
不明確でささやかなとき、私が行うことは「主よ、しもべはここに
おります、聞いております。どうぞお語りください。」という短い祈りです。
するとそれは御言葉による祈りですから、邪霊やサタンは引き下がり、
御声がはっきり聞こえるようになります。

ただし、この前提として必要なのは、
・主は生きておられ、私に対して明確に語る御方であると知ること。
・「何でも内なる油に聞きなさい」ということを知ること。
・そして、その二つを、自分に適用するという意味において、
自分の意志を用いて信じることです。
もっと簡単に言うと「霊に語られる言葉は神様の言葉である。
神様とケンカしても勝てないから、逆らわないのが利巧」である、
要は「聖なる打算」の下に、神様に「白旗」を上げることである、
と私は考えております。

それでも、自分の思いか御声かわからないときには、
神様に丸投げしています。

2009年3月30日月曜日

柄沢兄弟の為にお祈り下さい(3)

*入院に至る*
「昨晩 眠れたことを感謝します」と彼が祈ったその日はまた
吐き気の為に水を飲むことが困難な日ともなってしまいました。
その夜のことです:
入浴をした登さんは、ひどくノドの渇きを覚え、一人で次のように
祈ったのです「主よ、水が飲みたいのですが飲めないのです。どうか
助けて下さい!」その時です、登兄弟は「今飲みなさい」と言う
語りかけのようなものを感じたと言うのです。直後、ムカつきは直ちに
おさまり、シッカリ水を飲むことが出来たのです。これには登さん
自身がとても驚き、翌日の集まりの際に、皆にこれを証ししたのです。

その朝の集まりの中、彼は次の様にも祈りました。
「主よ、私には、見たいもの、聞きたいものがあり、そして
行きたい所もまだ多いのです。だからもっと生きたいのです」と。

しかし、
過酷にも症状は更に進み、登兄弟の頭の中は常にセミが鳴いて
いるようになり、腹部、胃の張りはひどく、更に背中に強い痛みを覚え、
そして黄だんの症状も現れてしまいました。しかし最も深刻に懸念
されるのは、体の脱水状態です。
このようなぎりぎりの状況の中、つい数日前の3月25日、自宅療養は
今、既に限界に達してしまったと判断するに至ったのです。

あるメール交換から

N兄弟:
私達は、どんなことがあっても、周りでどんな教えの風が
台風のように吹き荒れても、イエスにとどまり、御言葉に
留まり、そして御父に留まるべきと考えます。

Sugar:
アーメン!それこそが信仰の真髄です。
信じるということの本質は、実は感覚よりも意志の中にあります。
「神の御こころ・御ことば・神の意志」を、私の意志として取り、
受け入れ、その上に堅く立つのです。その時に、私がどう感じようが
何を思おうが、その感覚や考えに神はあまり関心を寄せられません。
神は、私達がただ彼のことばを率直に信じて欲しいのです。

私自身のことを言えば、信じた後、強い幸福感をよく経験する者
なのですが、その時喜び過ぎて、その感覚を見つめることは
決してよい結果を生みません。下手をすると、私はこんなにも
臨在感覚や天的感覚を感じることが出来るのだから、きっと霊的に
大いに進歩したに違いない等と思うかも知れません。
それは実にこっけいな状況なのです。

そのような時、キリスト者はいつの間にか、キリスト御自身や御言葉
よりも、この世界に存在するリアル感に満ちた無数の物達の影響
によって引き起こされる私の感覚、雰囲気、環境を信じ、それを
追いかけ、遂にはそれらに振り回されるようになってしまうのです。
この状態は大いに危険です。

もしそうであれば、キリスト者が、幸福感とは逆のマイナス感覚
や逆境などの状況に四方八方取り囲まれる時、自分を見る影も無く
哀れなものと感じ、信仰さえなくなってしまったのかと
大いに誤解し落胆するのです。これがよく私達が経験する
キリスト者のアップダウンです。

真に信じるとは、物質から来るリアル感、常に変化する様々な
状況などに影響されることなく、不動の「見えないもの」
神の真理に目を注ぐことです。
信仰とは3K、自分の感覚、環境、経験が総て入っているガラスコップの
「背後に」立ち「その小さなコップの中の3Kの総て、笑いと嵐を」を
静かに見おろすのです。
そして自身は何の上に立つのか。
それはただ神の真実と真理、動くことの無い神のことばの上にです。

柄沢兄弟の為にお祈り下さい(2)

残念ながらこの三月に至り、柄沢登兄弟の病状は進行しつつある
と言えそうです。胃の圧迫感、吐き気、食欲不振がその度を
加え、柄沢兄弟を苦しめているのです。

しかし3月10日に至り、主はあることを開始されました。
それは登さんのもとに3姉妹が毎朝集うことです。登さんは、
吐き気が強いため、そばにビニールの袋を用いして、集いに
加わわられます。彼はそこで姉妹達に、祈って下さいと
言いました。皆で賛美を歌い、次に姉妹達は声を出して次々と祈る時、
皆さんの祈りの後で登さんもアーメンと言います。

ある日、彼は夜、眠れなくて苦しいと言いました。その機会をとらえ
ある姉妹が「登さん、そのつらさをそのまま、声を出して主に
訴えてごらんなさい」と勧めました。その時、登さんは「主よ、辛いです。
夜も眠れないし、食べることも苦しいのです。助けて下さい」と
祈ったのです。翌日の集まりで、どうだった?と聞かれると、
彼は「眠れました!」と言ったので、今度は「それではそのことを
主に感謝して見たら」と勧めました。そして彼は「主よ有難う。
吐き気はありますが、眠れたことを感謝します」と言ったのです。


今しかし
状況は予断を許さないほど深刻であると言えます。エクレシアにある
皆様方の、緊急なお祈りが急務であることは極めて明らかです。

「登兄弟を愛し、その命をも捨てられた主よ、
あなたが今 彼に御自身を現わされますように。そしてあなたの御こころが
あますところなく、彼の上に実行されますように。しかし主よ、私達の願いは
彼が今、その苦しみから解き放たれ、その肉体が癒されることです。」

今現在 彼は入院中です。

2009年3月29日日曜日

ある質問に答えて

復活とは
Aを消滅させ、天からのBを、Aのあった所に入れ換える事ではなく、
AはあくまでAとして、その古き要素は捨て置き、Aそのものの中に
天的要素を入れ込むことです。

人そのものについて言えば、十字架において
神は人を全く消滅させること等決してなく、復活において
人に復活の天的要素を入れ込む、或いは人を
「復活という要素」と一つとする、と言うことだと思います。

人の魂の機能をエンジンの機械部分とし 
その魂の命を電気(或いはガソリン)に例えるならば
機械も電気も「旧物質」であり、旧創造なので、これらは
十字架と言う手段によって墓に捨て置かれなければなりません。
しかし、その意味は、神が人の魂の機能と命(機械と電気)の
総てを墓の中で永遠に消滅させると言うことではありません。

神は
A「人の復活した電気」(復活した魂の命)と
B「天的な電気」(聖霊)とを一つにして下さるのです。
そのようにして一つとされた天の命(エネルギー)によって、
私達は将来 永遠の中で、いつまでも人として生きることに
なるのです。聖霊には死と復活は必要ありませんし、
あり得ません。余談ですが、神は人(物質)となられたイエス
において、死が初めて可能となったのです。

神は神が創造された人のいかなる部分、人の魂の機能と
魂の命も失敗作として「完全破棄」されることは決してなく、
それを天的な要素と一つに結合されるのです。
その為には先ずもって、古き要素だけは必ず、
十字架において破棄されなければならなかったのです。


それにしても、復活とは不思議です。
死による完全な終結の後で、その原型を留めたまま、
それが、天の成分、復活と言う要素で満たされ得るのです。
(或いはこれを「新物質」と呼んでも許されるかもしれません!)

しかし、これは人の知性にとって、その理解は極めて困難です。
何故なら、人の辞書では、死・終結とは、新しい開始など
絶対にあり得ない完全な「終わり」を意味するからです。
人の「旧物質である頭脳」の知的能力は、その対象がただ旧物質
と言う範囲内に留まらざるを得ないのであり、それが死と復活と言う
経験を経由すること無しに「新物質」に及ぶことはあり得ないからです。

神は、彼がせっかく創造されたキリスト者の
いかなる部分(魂の命でさえ)も決して完全消滅されません。
実の所、消滅されないどころか神はどうしてもそこに、
復活という要素をプラスされることを永遠の過去において、彼の
喜びの中で計画されたのです。これは真に人には及びもつかない
途方も無いアイデアであったと、私達は畏れと驚嘆の中で
言わなければならないのです。

十字架は完全な死であり完璧な終結なのですが、
しかし何と、その後、それに復活の要素を入れ込むことを
可能とするお方が私達の神なのです。

もともと「時間の中における人の創造」にも終結と言うものは
無かった筈です。しかしこの場合は、単にエンドレスな時間という
意味での「永遠」に過ぎませんでした。しかし単にエンドレスな
時間というものには決定的に何かが欠けているのです。それは
究極的な満足を神に与えることはあり得なかったのです。
復活なくして、神が永遠に満ち足りることは絶対にありません。
復活こそ、神の心なのです。

そこで神は、サタンの故に、サタンから出てきた
終結(死)というものを、神の至高の知恵によって、
時間の中においてそれを「活用された」のです!

時間の中で死は完全終結です。従って時間の中に存在する
旧創造・旧物質は死によって完全に終結されます。しかし、もしも
ここに、キリスト・イエスにある神御自身が介入されるのであれば、
イエスの復活において、死・終結は完全打破されるのです。それは、
神に創造されたいかなるもの(時空と万物)も創造者御自身に勝る
ことなどあり得ないからです。敵によって汚染された万物を完全終結し、
しかもその万物を生かして、それを「新物質」とする唯一の手段、
それが死と復活であったのです。
ここに初めて人は復活において「卓越した永遠」と
一つに結合されることが可能となったと言えます。

当然この場合の「卓越した永遠」とは、繰り返しますが単に「旧物質」
であるエンドレスの「旧時間」ではありません。それは全く異質の
超越した実質です。敢えてそれは何かと問われるならば、卓越した
永遠とは、イエスの死と復活を経過して初めて人の中に導入されるべき
現在のキリスト・イエス御自身にある「永遠なる神」である
とでも言わざるを得ないでしょう。

信仰とは結合を意味します。従って信仰がなくては「復活と
卓越した永遠」に対して人が結合されることはあり得ないのです。
しかし人はイエス・キリストとの信仰による結合において、
今既にそして未来において
「復活を伴う卓越した永遠」そのものを内にいただき、同時に
「復活を伴う卓越した永遠」の中へと入り込むことが可能となるのです。

☆おことわり:
以上の文は、ある人のある質問に答えたものです。従って
分かりにくい所も多いのではないかと懸念しております。

柄沢兄弟の為にお祈り下さい(1)

千葉県の佐倉、酒々井(しすい)地方に
主によって3名の姉妹達(この世の姉妹関係でもある)
が起こされ、今明らかに、その3姉妹を中心にした
交わりがエクレシアにおける、キリストの活動の
一つの基点・前線となっております。

その中の一人の姉妹の御主人が柄沢登氏です。
氏はホンの一年ほど前、奥さんからの信仰の勧めに対し、
人がびっくりするほどの、思いがけなくも、強烈な拒絶反応を
見せたのでした。それは一つには奥さんの一計を案じた
伝道方法等に強く反発したもの、でもあったようです。
しかし不思議なことに、この出来事以来、主はこの家族に対し
とても色濃くそして深い働きを始められたようです。(人が
真に正直であることは、何と神をも引き付ける一要素なのです。)

さて話はさかのぼる5、6年前、氏は胃ガンの摘出手術を
受けられました。(その際、明らかに認められていた6センチ
ほどの腫瘍が、開けて見たらその実体はどこにも見当たらず、医師も
首をかしげていたと言う一つの逸話があります。)
その手術の前、氏は勧められるままに「一応」キリストを受け入れ
られたと言うことなのですが、残念ながらその後の氏に、
主を真剣に求める様子等は見受けられなかったと言います。

そして、去年に至り、ガンの転移が発見されたのです。
ところが実に不運なことに、その部位(腹壁あたり)は手術が
出来ない場所であっただけでなく、放射線治療さえも不可能
であったのです。あとは抗癌剤しか残されていないのですが、
今度はそれへの拒否反応(おうと、視力の著しい減退、歩行困難等)
が余りにも苦しく、遂に氏は総ての医学的方策を放棄せざるを得ない
と言うぎりぎりの状況に追い込まれてしまったのです。
ただ自覚症状は回復し、視力も戻り、ある結婚式にも参列する
ことが出来たほどでした。
にも関わらず、今年一月遂に、ガンは2、3センチの大きさ
となってその姿を現したのです。

しかしこの間、
主は同時に、このご夫婦の間に明確に介入されたのです。ある時
姉妹はシッカリと信仰に立ち、まっすぐご主人に対されたのです。
即ち、その時姉妹は内にあるメッセージを次の様に
御主人に告げることが出来たのです:「今ゼヒあなたは、あなたの
人生の中でどうしてもしなければならない大切な選択をして下さい。
それは、あなたの意志で明確に主を受け入れるかどうか、
と言う選択です」と。

それは完全に主の御導きでした。
その時、姉妹の単純さから来るイエス御自身の清さが、聖霊の中で
登さんに触れ、その結果登さんは明確にキリストを受け入れられ、
そしてバプテスマをされ、その様にして、神そのものの中にだけ存在する
「永遠の命」をいただき、明確に神の国へと誕生したのです。即ち
柄沢氏は確実に、イエスと同じ父と、全く同じ父からの命を持つ、
柄沢登兄弟となったのです。
思えば、これは何たる神の御業だったことでしょう。
私達は、ただ主の御名を高く高く掲げるのみです。

2009年3月27日金曜日

神の御こころ3

ある書物によると
「御こころ」と訳された原語の意味は、
旧約では、
①心、内部、真ん中、等の意味、
②好意を持つ、と言う意味
③喜ぶ、と言う意味、
新約では
①意志、思い、から
②望む、志す、から
③計画、目的、等から「御こころ」と訳された、
と言うことになっています。
これが正しければ、日本語の「御こころ」と言う訳語は
問題なく的を得ていると言えそうです。

当然ですが、ここで私達が読み取るべきポイントは
御こころは、単なる神の「冷徹な計画」と言うことに留まらず、
神の心が強く反映されている何か、であると言うことです。
それは神の心からの願望、熱望なのです。

もしも、神が、旧新約の神の民にとって、真の「主君」である
とするならば(神が主であるならば)、主君の「心からの計画」
や「心からの望み」を、愛する主君の為に、それを実現して
差し上げたいと「お家」の家臣達が念願したとしても、
それは当然のことだったのでしょう。

さて、聖書とは「神の御こころを書き綴った書」であると言っても
そんなに間違いはないでしょう。従って、歴代の忠信なる神のお家の
家臣達は、先ずは聖書を懸命に読み調べ、そして彼らは遂に、神の
御こころを突き止めるに至ったのです。それ故、彼らは大いに喜び勇み、
そして、彼らの中のある者たちは、彼らの為に真実を捧げ尽くされた
愛する主君の御こころ実現の為に、彼らの命さえも喜んで捨てて行った
と言う無数の歴史的事実は、余りにも当然の成り行きであった、
と言えるでしょう。

私達が、今でさえ赤穂の忠臣の話に心を打たれるのは、それを
聞くとき、私達の意識を超えたある認識の中で、目には見えない
「真の」主君や、宇宙にある「真の」お家、と言うものに、
その時、私達の心が深く繋がって行くから、かも知れません。

2009年3月26日木曜日

今日のメールから

今日は実に楽しいメール、
ホンとに有難うございました。

長年、相当○○を勉強されたんですね。
一度ぜひ拝見させて下さい。
メールを読ませてもらって、何だかあなた様のこれまでの半生、
私にも「結構見えたっ」と言う感じがしたんですよ。
ま、そういうこともないんでしょうが・・

大学も千葉県の大学で・・もう完全に千葉の人ですね。
私は茨城県ですが、駅は千葉県です。だから皆さん、あの辺は
「チバラキ圏」だ、などと言っているようです。
(でも私、もともとは秋田県出身ですが)
あなたの次回の「あかし的文章」がとても楽しみです。

それにしても、
今改めてつくずくと「キリストは凄い!」と思います。
私の人生もこれまで、まーイロイロありましたが、
数年前、山で一人でいるとき、
「ただ一点小さなキリスト」に集中してみたら、何と直ちにです!
「私を取り巻く大変な状況の一切」が、その日その瞬間を区切りに、
正に確実に、全部が実によい方向へと、ゆっくりと
回転し始めたのです。これには正直 驚きました。
でも神様だからあたりまえか、とも思いましたけどね。
(その回転は今でも続いているのです。
それに、どうも加速度が付いてるよ)

クリスチャン人生と言うのは、ある意味では 
とても「ラクチン」なものです。
こんな素敵な人生の秘訣、ほかには絶対にありません。
キリストは正に宇宙の中心、これホンとです。
それでは また。 

神の御こころ2

聖書を見るとき、新約聖書だけでも「御こころ」と言うフレーズが
相当頻繁に登場することに気づきます。その一部をあげてみると・・

・マタイ6の10:御こころが天に行われる通り
地でも行われますように。
・マタイ7の21:私に向かって、主よ、主よと言う者が皆
天の御国に入るのではなく、天におられる私の父の御こころを
行う者が入るのです。
・マタイ26の42:父よ、どうしても飲まずに済まされぬ
杯でしたら、どうぞ御みこころの通りをなさって下さい。
・マルコ3の35:神の御こころを行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、
また母なのです。
・ヨハネ4の34:イエスは彼らに言われた。「私を遣わした方の
御こころを行い、その御わざを成し遂げることが、私の食物です。」
・ヨハネ7の17:誰でも神の御こころを行おうと願うなら、
その人には、この教えが、神から出たものか、私が自分から語って
いるのかが分かります。
・使徒22の14:私達の先祖の神は、あなた(パウロ)に
御こころを知らせ・・
・Ⅱコリント8の5:神の御こころに従って、まず自分自身を主にささげ、
・コロサイ1の9:神の御こころに関する真の知識に満たされますように。
・ヘブル10の5~7:キリストは・・こう言われるのです。「神よ、
あなたの御こころを行うために・・」
・ヘブル13の:御前で御こころにかなうことを私達の内に行い、
あなた方が御こころを行うことが出来るために・・
・Ⅰペテロ4の2:あなた方は、地上の残された時を、もはや人間の
欲望のためではなく、神の御こころのために過ごすようになるのである。
・Ⅰヨハネ2の17:世と世の欲とは滅び去ります。しかし、神の
御こころを行う者は、いつまでも永らえます。

「神の御こころ」に意味上は極めて近いと思われる「神に喜ばれること」
なども加えたら、それはかなりの数に上るでしょう。

2009年3月25日水曜日

神の御こころ

以下はあるキリスト者の言葉です:

サタンの目的は 
人間を得て神の御心に挑むこと。
それゆえ サタンが最も恐れるのは
神の御心を行う人。
神の目的は、
サタンのすべての働きを破壊する人を得ること。
「神よ、イエス・キリストの中で
兄弟姉妹一人一人が
神の御心で満たされますように」
(コロサイ1:10b)Dr.K訳


キリスト者にはどうしても
「神の御こころ」と言うフレーズにフト
しかしシッカリと捕らえられる日がなければなりません。
キリスト者が「神からいただいた新しい命」は、
(もしそれが本物であるならば)
必ずある日、
神の御こころへの関心と愛を喚起します。
この不思議な働きは
天来の霊的な活動によって初めて可能です。

しかしこれは神と私の、容易ならざるラブストーリーの
記念すべき新しい開始の日となるのです。

2009年3月24日火曜日

北の国から

「遠い遠い」北国に転勤が決まったとか。
ごめんなさい、他人のことながら、
私は勝手に信じていたんですよ、
「きっとそれは主からである」と。

ところが今日、何と何と、同じ北の国の「ある教会」から
突然電話があって「兄弟、ゼヒ交わりに来て下さい」と。
でもこれ、どうなってるの?!
私はこういう状況を前に一体どうすればいいんですか。

ハイ、でもすぐ分かりましたよ。
「私」がすることなどホンとに何も無い、と言うことが。
私のすることは、ただ総ての肩の力を抜いて
次のように祈ること:
「あなたの御こころは、必ずあなた御自身が実行されます。
主よ、私は一歩一歩、あなたについて行くだけです」と。

環境の中、
「神からの?なんらかの語りかけ」があったら、祈りによって
その語りかけを「そっくりそのまま」神にお返しします。
そうすれば、その後で、きっと神様はまた、私の環境と
私の魂の静けさの中で「私の霊」へと、
彼の繊細な御声として「何か」を投げかけられるのです。
私はそのような繰り返しの中で、その度ごとに、小さな一歩一歩を
主の前で「おそるおそると」踏み出して見るだけです。
それにしてもこれは何とワンダフル(不思議一杯)で
楽しい主との「道行き」でしょうか。

さあ、それでは早速祈りましょう。
これ第一回目。


環境の中、
「神からの?なんらかの語りかけ」について:

電光石火のヒラメキのごとき、人の意志を
無視したような「語りかけ」にはむしろ、
要注意です。(総ての「神がかり現象」は
「他の霊」からであると思うべきです。)

神は、私達の奥深い霊の中で「圧迫するような、重苦しいような、
何かを語っているような、語りかけではないような、しかし
時間の中では一定不変、しかしあくまであなたの自由意志・人格を
尊重される何ものか」として語りかけられます。ですから
あなたがそれを今、意図的に無視しようとすれば「一時的には」
それはあなたから退かれるでしょう。☆☆:

私達は旧約の預言者とは根本的に違います。以上のような姿が
今の時代、神が一人一人のキリスト者に対して望んでおられる
「神とのお付き合い」なのです。それが究極的には
「私達がキリストを生きること」に繋がって行くのでしょう。

ですから、どうしても
「おそるおそる」や「一歩踏み出してみる」「神との
キャッチボールのような地道な祈りの作業」は欠かせないのです。
その様にしてまで、神は私達に祈らせたい、
神に対して問いかけさせたい、神を待ち望ませたい、のです。
それは私達の日常生活一歩一歩において、私達が遂には、100%
真実に神により頼むようになるためです。目の不自由な人が、手を
引いてくれる人により頼まなければ、全くただの一歩も歩けない様に。

☆☆:
この人の霊の「直覚」を通して、軟膏をあなたの肌に「指先で微妙に
優しく塗る」ような聖霊の語りかけは、私達が普通「感覚」と呼ぶ
ものとは全く次元の異なったものである、と言えます。人の所有する
感覚はそれが外の器官であればあるほど、分かりやすく、しかし
より荒々しくなります。(体の感覚はその最たるものです)
しかし魂の感覚とは言え、それはあくまで被造物のそれです。しかし
聖霊は基本的に「被造物ではない」のであり、それはあのイエスの
中に存在した「真の命が持つ無限の繊細さ」を持っているのです。

多くの場合、初めその深い「感覚」は一体それが何であるのかさえ、
把握出来ません。ですから、私達はそれを無視するのが普通です。
また霊を取り巻く私の魂の活動(感情、思い)が一日中、余りにも
にぎやかあるならば、その繊細な霊の動きに私達が気が付く
可能性さえないでしょう。(なお、霊の一機能・良心も直覚を介して
私達に感知されます。)

さて
聖霊はこの直覚を通してだけ、人に語りかけられるのですから、
私達は内におられる聖霊というお方に対して深い敬意と
愛とそして十二分の注意深さをもって、接しなければなりません。

さて
私達がしばしば聖霊からの感覚を無視してしまうもう一つの大きな
理由は、聖霊の意図はあなたの理性や感情とは関わりなく、直接
神から来るという事実です。(だから直覚と呼ばれるのでしょう)
聖霊が私の理性や理屈、好みに問い合わせすること等ありません。
従って普通私達は「ある聖霊の意図」を感知したとしても、「そうは
言われても、そんなに簡単に服従するわけには行かない」と
軽率に反応してしまうのです。

にもかかわらず、聖霊があなたに対して彼の意図をたやすく変更する
ことはありません。しかし、あなたに語りかける静かな語りかけに
対して、あなたが長期間 服従することをせず、敢えて何度でも
無視するならば、遂には「そのレベルでの」聖霊の働き・あなたへの
神の意図を、あなたは決定的に遠ざけてしまう結果となるのです。
しかし、それは神とあなたにとって、
極めて大きな損失であることは言うまでもありません。なぜなら
それはあなたに対する一つの「聖霊の譲歩」であったからです!

2009年3月23日月曜日

今朝のメールから

結局 私達の戦いは、
「目に見えないものども」との戦いのようです。
彼らが私達を攻撃するのは「あらゆることで」
であるのでしょう。
もしもその攻撃が本当に「あらゆることで」であるならば
私達は当然「絶えず目を覚まして」いなければ
ならないことになります。

それは戦場に送られた兵士達の絶えざる心配りを
少し考えるだけで容易に分かることです。
「あなた方の霊、魂、体が完全に守られますように」
(Ⅰテサロニケ5の23)


O兄弟からメールがありました。
仕事と静養と運動をバランスよくしっかり実行して
おられるようですよ:
「400-700m位を普通の人の半分の速さで歩いています。」

Oさん今「キリスト者の標準」を再読されているとか。
本当に嬉しいことです。


今日は石膏ボードを買いに 
大越町まで行かなければなりません。
それにしても石膏ボードを買いに行くとき、
どうやって目に見えない悪鬼どもに対して
自分の霊、魂、体を完全に守るのかな。

2009年3月22日日曜日

世に死なない命

メールを有難うございました。
「真理は世に死なない命を証された」
が特に嬉しかったです。

そのようにして 光に照らされた正にその分だけ 
私達は主に仕えることができるのでしょう。

何回も言うようですが、
先日の兄弟との出会いは、私にとって非常に
意味深いものでした。
これからも、この交わりは「主からのもの」として
大切にするべし、と明確に感じさせられた思いでした。

交わりこそが、総ての主の行動の前線と基点です。
私達が何もしないとしても(否、むしろ総ての人の意図等
捨ててしまった方がいい)そこにささやかな
真の交わりさえあれば、確実に主自らが動かれます。
本当にそれだけでいいのだと思っております。

小さな交わり、
その中に存在する、人の知らないある不思議な力には、
私達が今はその全貌など把握するすべもない、
天的で無限の可能性が秘められていることでしょう。

ps:
すみません。
例の「直覚と意志」はその後、だいぶ付け加えて
しまいました。わずらわしいことでしょうが、
もし、再読して下さるならば幸いと存じます。

2009年3月21日土曜日

今、山です

先ほど、小屋に着きました。
のどかな春の日差しの中、はるばる
太平洋を望む6号線と福島路を走って来ました。

山も平和そのものの無風快晴ですが、さすがに少し寒い。
やはりここは3月になってもストーブは十分必要なのです。
(4月になっても、かな)
予報を見るとあさってあたり、何と雪になるとか。

多分今回は丁度2週間の山暮らしでしょう。
床の野地板張りと壁工事はどれぐらい進むのでしょうか。

その間、三春の滝桜を見たいと言う東京のカップルとの
「早朝4時の花見」は本当に実現するのかな。
未明の薄明かりに浮かぶ樹齢千年の
ベニシダレザクラとはどんなでしょうか。

例の「三階建て4層鍋」での「世界一の手抜き料理」がおいし
過ぎて、あれ以来、確実に太り気味。対策は「間食をひかえる」
と言うことで、今、結構努力しているのです。

だから、お腹が空きましたね。
今日の鍋の中は、一寸さびしく、ほうれん草と豚肉だけですが。

そうそう、途中、いつも寄る水戸近くの露天の八百屋さんで、
絶対に、ゴミ袋いっぱいはある、大量の人参が何と
たったの380円。
だから、明日から当分毎日人参です!
(マルシアよ、こんなときはどうしたらいいのかな)

2009年3月19日木曜日

直覚と意志

基本的なこと:
①ただ御ことばと私の霊の中の直覚において、
②聖霊の啓示によって神の意志(みこころ)を知り、
③それを私の思いで理解、確認し、
④私の意志を行使して(サタンの意志を拒絶し)
その神の意志を選択し受け入れ、
⑤聖霊への全き依存の中で、神と同労する。
以上が基本です。


しかし、以上の基本的なことには2つの大きな前提があります。

旧創造を一掃する為に、死に向かい、死を受け入れ、そして新創造導入
の為に、復活し、御座につかれたキリストの経験を真に認識し、
それらのキリストの経験をキリストとの一つの中で
自分のものとして日々経験すること。(これはおもに積極面です)

キリストにおいて既に達成されているが故に、それを根拠に
私の罪、肉、この世、魂の命(機能ではない)の除去を
私において達成すること。キリストの死と言う霊的世界における
決定的分離を時空の中のわが身に適用すること。(これは消極面です)


基本①②の説明:
神が、私たちの霊の一つの機能である直覚以外の場所で、直接に神や
神の意志(細かなその人に関わる神の御こころを含め)を人に知ら
しめることはあり得ません。このことの認識が無いとキリスト者は
たやすく、人の霊以外の場所(魂と体)に働きかける敵から来る
感覚を神からのものであると誤解します。これは大きな悲劇です。

例えば、キリスト者が最高度に評価する、不思議で
超自然的な感覚:「燃えるような愛」「臨在感覚」「第三の天の感覚」
「聖霊からの火のような感覚」、時には体のしびれや、目によって
不思議なものを見る等、敵が送る種々の超自然的感覚がそれです。
極端な場合、例えばある人達は「彼らの」目によって「イエス」の姿を
見たと公言します。これはさまざまな宗教や修行に見られるいわゆる
「深み」です。これらの魂や体の感覚はある程度、外側から人の霊に
さえ(聖霊にではなく)影響を与えるので、彼らはそこに「ある深さ」
を感じ「これは神が与えた神からの感覚である」と誤解するのです。
そのようにして彼らは確実に彼らの世界の中で、
ある種の崇拝と座が与えられるのです。

しかしながら、私達は、これらの殆どは、特にキリスト者をターゲット
にした神の敵のかく乱や真理からおびき出す巧妙な「エサ」であること
を知るべきです。私達はそのエサに決して食いついてはなりません。
堕落した天使長から来る虚偽と光の偽装の深さは殆ど無限であり、
自らの破滅の運命を予知する彼の究極的な狙いは
「彼と共なる死」「滅亡への道ずれ」なのです。

キリスト者は、特に今後の世界において、神の敵が多くの不思議、
奇跡を行うことを忘れてはなりません。それは遂には全世界の
神を憎む人々が、こぞって「物を言う偶像」を礼拝するようになる
と言うクライマックスに確実に至るでしょう。ですから今、敵は彼が
憎むキリスト者達の魂と体に対してさえ、超自然的な業を少しずつ
始めている、としても何の不思議もありません。もしかして敵は
「不思議崇拝」の世界的な潮流を先ずはキリスト教徒から
始めたいのかも知れません。

私達は知るべきです、神が評価するのはただ信仰であり、信仰は
感情や思いとは直接には関わりがない、ということを。(思いや
感情で信じるのではない、と言う意味)信仰は人が、自分の感覚、環境
経験(3K)以上に神に信頼を置くが故に、ただ神のことばを
「選択する」と言う冷静な意志の中にこそ存在するのです。
それこそが、神が喜ばれるものです。

当然、キリスト者が真に信じた後で、神がよき感覚を与えられる
可能性は十分あり得ます。しかし「神から来る幸せな感覚」にさえ、
過大な評価を与えることは危険です。決して「天的多幸感覚の獲得や
不思議体験」そのものがキリスト者の切望であってはならないのです。
私達の切望はひとえに真理そのものと、それが私の霊に啓示される
ことであるべきであり、その後に訪れるものがどんなに素晴らしい
ものであったとしても、それらを決して抱きしめてはならないのです。

「リアリティ」の獲得も感覚や思いによってではありません。それは
キリストとの結合に対する信仰によるのです。なぜならキリストこそ
そのリアリティそのものであり、信仰とは結合であるからです。

③の説明:
この時、私達は決して受身的な態度に陥らず、状況を判断し、冷静に
聖霊によって新しくされた「思いを用いる」必要があります。ここに
おいて、直覚で得られた真の知識を思いの中での理解によって
確認するのです。しかしそれは先ず霊において知るということ
(啓示)がなければ、何の意味もないことです。だから
キリスト者は総てにもまして神からの啓示を求め、待つべきです。
しかしその聖霊による啓示は、必ず唯あなたの「霊の中の直覚をとおして
のみ」であることを正確にしゅん別する必要があるのです。

④の説明:
宇宙には3つの意志があります。神の意志、サタンの意志、人の意志です。
この3者は完全に独立しています。ですから人は自分の意志を固め、
サタンの意志を拒絶し、神の意志を選択する必要があります。これは
完全に人の役割です。神が人に代わって神の意志を選択してあげること等
絶対にあり得ません。「神が人に自由意志を与えた」これは神の大原則
であり、今更、神でさえそれを覆すことは不可能です。神の願いは、
(あの時のエバのようにふにゃふにゃせずに)人が自らしっかりと立ち、
神と神のことばを自由意志の中で選択することなのです。

今日この点の誤解は広く行き渡っており、キリスト者は何もせず、ただ
「来るもの」を受け入れるのが素晴らしい信仰であると考えます。元より
神は人の自由意志を尊重して動きません。所が人は何もせず、時には
意識的に自分の思いをさえ振り払って、唯何かを待ちます。従ってここに
「何でも」受け入れてしまうと言う危険な状況が発生するのです。

そんな時に何が起こるのでしょうか。「第三の意志」が待ってました
とばかりに巧妙なだましの手口で行動するのです。その時、敵の対象は
人の体の機能と感覚、そして人の感情と思いであり、終局的には
人の意志でさえ麻痺させてしまいます。程度の差こそあれ、今日
このタイプのキリスト者は何と多いことでしょう。それは人の最も大切な
機能・自分の意志を神の御前で明確に働かせなかった結果なのです。

これは霊的世界の法則に従った現象です。即ちある原因があれば必ず
その結果が伴うと言うことです。だから私達は決して、夏の家畜小屋のハエ
のようにこの地上におびただしく実在する所の、極めて知的で超自然的能力
を持つ、目に見えない人のような生物・悪霊達が、私達の魂と体に付着する
原因を作ってはなりません。(悪霊共の意志はとても明確)そしてその原因を
排除できるのは、あなたの思いと感情に働きかける敵、に対する断固とした
拒絶と神のことばのみを受け入れるしっかりとした意志なのです。

⑤の説明:
「自分の十字架を負い、魂の命を失うべし」と言うイエスのことばが
ここにおける関連です。魂の「物質的」エネルギー・命
(魂の個性や機能ではなく)を十字架に渡すと言う日々の私の作業があって
初めて、聖霊の命と性質が、人の魂の機能を通して、神の意志を
この地上に表現することが可能となるのです。

2009年3月16日月曜日

あるメールのやり取りから

Sugar:
「家の中で長男とこれからも一緒に祈る時間をとり、主に触れて
もらい歩んでいきたいと思っています。・・・
一番小さな単位である家庭を大切にしていきたいのです。
自宅というものを、互いに愛し合いながら、何でも話が出来て
のんびり出来るところにしたいというのが私の願いです。」
と書かれたあなた様の言葉に接し、とても感動しました。
「一番小さな単位である家庭を大切に・・
何でも話が出来て のんびり出来るところ」

ホンとにアーメンです。姉妹、どうかこれからも
おっしゃられたことを、この上もなく大切なものとして下さいますように。
そのこと、実はエクレシア・教会でも一番大切にしなければならない
ことに違いありません。何故なら教会こそ「真の家庭」なのですから。

これから、あなたの町やその近辺でも、そのようなキリスト者の
集まりがそこここに現れますように。その為には先ずは
「小さな2、3人の交わり」を大切にしなければなりません。
主の再臨に至るまで、これからあちこちに現れるであろう、
そのささやかな交わりこそが「神による」真の働きの
基点や前線になって行くことでしょう。
それでは また。

ps おうかがいします:
上のやりとりを 個人名は出さずに、一部を変えて
私のブログに載せてもよろしいでしょうか。


T姉妹:
今晩はです。
私の言葉に「感動した」と言って頂いて嬉しいです。
これからも、そのことを第一にして楽しい家庭にしていきたいと思います。
兄弟の 
「それこそが教会に求められることです」という言葉を目にして、
小さく「あ!」と声が出てしまいました。本当にそうだと思います。
でも、たくさんの祈りをしましたが、なかなかその理想に教会が到達しない
現実を見るにつけ、主は別のことを望まれているのか、とも思いました。

このことを主に祈って行きたいと思います。主の御こころがなんであるのか?
祈りがかなわないとき、別の道が用意されていることもあるのですよね。
「わたしの願うようにではなく、あなたの御こころのようになさってください」
と主イエスが祈られたように祈っていきたいと思います。

今日は礼拝のあと、先日主をオープンに受け入れられたOさん、そして
Nさんと三人で食事をしながら交わりを持つことができました。Oさんが
しっかりした思いを持っていることを確認できて安心しました。
これからも、たくさんの兄弟姉妹たちとの“良い”交わりを
持ちたいと願います。まだ主を知らない人との交流も大切にしたいです。
それもこれも、すべて主のみ手に委ね、感謝しつつ祈っていきます。

ブログにのせてくださるという件、喜んでOKです。
実名でも全くかまいません(笑)良くある名前ですし・・・。
主イエスのみ名のゆえに集められ出会うことができたことを、
主に感謝しつつ。

2009年3月15日日曜日

キリスト者が集まる

少数のキリスト者の自然な集まり、それこそがエクレシア(教会)
の前線であり、神の働きの基点です。「その小さな2、3人」
からのみ、神は事を始められるのです。従って神の働きの上で
少数のキリスト者の集まりほど大切なものはありません。

1 
キリスト者のあつまりは実に単純なものです。(複雑なものには要注意)
先ず、集まる理由はただ「会いたいから」です。私達はただ兄弟姉妹に
会いたいから万難を排して会いに行くのです。更に言葉を加えるとする
ならば、それは「私の中のキリストが他のキリスト者の中のキリストに
触れたいから」なのでであり、そこには、キリストの人への愛の力が
作用しているから、と言う事になるのでしょう。私達はただ
その理由の故に「どうしようもなく」集まってしまうのです。
そこに存在するとても自然でしかも不思議なある種の吸引力、
この「単純な衝動」がキリスト者が
「集まってしまう」と言う生命現象の説明です。

しかし気の毒なことに今日多くのキリスト者達はあまりに複雑にされて
いるのです。本当は集まりたくない場合でも、他のいろいろな理由の為に
集まっています。従ってそこには、本来エクレシアにあってはならない
複雑怪奇で不自然なものがいつの間にか積もり積もってしまうのです。


次に「他のキリスト者の中のキリスト」への愛は聖霊の中にあって必ず
私をしてキリストの十字架へと導きます。これはある深い法則です。それ故、
キリスト者の集まりの為の重要な条件は十字架と言うことになります。
キリスト者が集まる場所の入り口は実のところ死・十字架で構成されている
のです。ですから、なんびとも十字架を経過することなしに、他のキリスト者
に出会うことは不可能です。本当の所、その前に、キリスト者の上には
四六時中絶えずキリストの死が働いているのです。(Ⅱコリント4の11:
「私達 生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。」)
この意味は、キリスト者は絶えず(日常的に)キリストの死の中に留まって
いなければならない、それは人に対するとても厳然たる基本的な神の意図
である、と言うことです。ですから、他のキリスト者にあなたが出会う時、
そこには最早「あなた」は存在することが出来ません。遅くとも集会所の
入り口であなたは「殺され」なけばなりません。ですからもしもそこで、
あなたが真に「呪いの木」に釘付けられることを神に許すならば、
集会の場所に座っているあなたはキリストと共に復活した「別のあなた」
でしょう。その新しいあなた・キリストとの一つの中で復活したあなた
だけが、神とエクレシアにとって初めて益となり得るのです。

そうでなければ、あなたは十字架に付けられることを拒んだ古いアダムの
血肉をエクレシアに持ち込むことになり、エクレシアに変質をもたらして
しまうのは避けられません。それこそが極めて大きな問題です。
今日のキリスト教の姿が「神の外観をまとい、十字架を拒んだ古い人類の
一切を現している」のは無理からぬことです。それは人々が
「十字架とは何であるかを実際には殆ど知らない」と言う深刻な事実を
如実に示していると言わざるを得ません。十字架の認識とその実際的な
経験の欠如、それが今日見る一切の混乱の唯一の理由であると
極言できるのです。


ですから、他のキリスト者と集まる時、私たちに何の意図もあるはずが
ありませんし、誰かが他の人を「仕切る」ことなどあり得ません。何故なら
一人一人の意図は、遅くも集会所の入り口で総て「神の呪いの故に」木に
釘付けられてしまうからです。
ですから、集まりの中、私達が感じることはただ「復活のキリストよ、
これはあなたの教会・エクレシアです。少なくもこの2、3人は
その一部です。ですから、この集まりの一切は総てあなたのものです。
そうです、この集まりの総責任者はただあなた・キリストです。ですから、
この集まりの始めから終わりまで、一切をあなたが取り仕切って下さい」
なのです。もしも真に「その祈りの心」が私たちにあるならば、初めて
聖霊は「キリストの意図」を集会に現されることが可能となるのです。
その時こそ、人の汗と肉に全く無縁な復活のキリストの意図がその小さな
集まりの中で、生ける言葉として一人一人に明確に、タイムリーに
表れされることが期待できるのです。

ただ今生きている復活のキリスト御自身によって、今日のための
「キリストの意図」を集まりの中で各人に明瞭に表現していただく、
これのみが私たちが集まる目当てであります。

2009年3月14日土曜日

喜びのメール

兄弟姉妹の皆様
千葉市のNです。夜分遅くに失礼いたします。

報告があります。
本日ただいま、О君が、イエス様を心に受け入れると
意思表示を致しました。
今О君は私と共に、主を受け入れる祈りをささげました。
私の心はうれしくて仕方ありません。洗礼者ヨハネの
心境とはこのようなものかと、感じているしだいです。
取り急ぎ、報告までに。
栄光在主 N.T.


この日 千葉市で第一回目の小さな集まりがありました。
従ってこのメールはその夜の出来事なのでしょう。

2009年3月11日水曜日

あるメール交換から

O兄弟:
使徒の働き14章19~20節を読みました:
私の場合、パウロと同じようなことはまだ兆候も見えません。
時は神様のものですが、それと同時に「このこと」が神様から来たもの
なのか、自分の大脳の中の働きによるものなのかは識別できないので、
どうなるのか期待だけしています。主からのものであるならば
成就するように、とそれだけを祈りました。


Sugar:
兄弟は確かに「現在の時代における最も重要なポイント」を
探っておられると知り感動させられました。
そうです、現在私達の間でも、パウロの時代と「同質のもの」が、
私達の周辺にも日常的に起こって来ないとすればそれは
どこか私たちが間違っているに違いないのです、スケールの差は
やむを得ないとしても・・。それとも「聖霊の質」が今日では
低劣化してしまったのでしょうか!?

「神様から来たものかどうか」の見極め:
これが正に今日、キリスト者の間で大混乱を呈しているものです。
敢えて言えば、サッパリ検討が付かないのです。もっと言えば
今日行われているものは大部分聖霊でない「ある霊」が行っている
とさえ言えると思います。これは明らかに極めて深刻な事態です。

かの日「地上で私が行ったことが総て、全く聖霊とは無関係であった」
と言う悲劇にだけは決して遭遇したくはない、と心から思うのです。


O兄弟:
メールを感謝します。
今、退院後の検査から帰ってきました。
入院中、重症の心不全になり、肺に水がたまって、深呼吸しようと
しても少ししか空気が入らないような時もありましたが、
今日の検査結果は、だいぶ良くなり、肺の水は全くなく、心不全も
軽度となり、家の周囲を散歩してもよいことになりました。心電図も
心配なしとのことです。担当医からは「疲れたら休息をとれば
よいですよ。」ということでした、まだ、散歩距離は500m位ですけれど。
しかし、退院後今日までは、家から全く出れなかった
のですからとても嬉しいです。

ウォッチマン・ニーのコピーの<直覚>について読みました。
私の状態は「理解する」>>「知る」という状態だな、と思いました。
「知る」という体験も多くありますが、「魂によって理解する」
ということがはるかに多かったな、と思います。
・・・報告と感謝まで。


注釈:
少し詳しく述べると次のようになります。
聖書で「知る」とは神の啓示から、霊の中で聖霊によって神の御旨を
知ることです。この時点においては思い・頭脳の関与は全くありません。
それには一方的な神からの啓示を待たねばなりません。
次に一定時間を費やして、或いは瞬時に、直覚を通して「知った」
内容を思いを用いて理解するのです。
換言すれば、直覚によって「知った」ことを、次に思いを用いて
理解、確認するのです。この段階に至ってキリスト者は初めて他人に
説明も出来るのです。(だから思いは極めて大切です)しかし霊の中で
「知る」があって、次に初めて思いを用いてそれを理解出来るのです。
先ず「知る」がなければ「理解する」はあり得ません。この優先順序は
動かし得ないものです。あくまで霊の中の直覚が主導なのです。
繰り返しますが、それ故に啓示によって「知って」はいるが、その人自身
まだそれが何のことなのか理解出来ないし、人に説明も出来ない
と言うことはあり得ることなのです。

2009年3月7日土曜日

ただ神の祝福さえあれば

総ては、神の祝福にかかっています。

それがなければ、何もないでしょう。

そしてその祝福は ただ真実な交わりと十字架の実際

から来るのです。

最上の方法も その二つと比べるならば、

全く何ものでもありません。

今日、そのような交わりを下さった主に

ただハレルヤ。

2009年3月6日金曜日

ある兄弟へのメールから 3

インターネットで広告を一瞥しただけですが
兄弟が疑問を持たれたと言われる「レフトビハインド」は
人の頭とコマーシャリズムから出てきた単なるフィクション
ではないのですか。

それにしても現代アメリカ流のセンセイショナルなものに、
たやすく踊らされてしまう風潮に深い憂いを覚えます。
そう言うやり方は決して神の方法ではありません。

そうではなく、私たちは注意深い御ことばの学びと
内なる聖霊の細き声から(油塗りの教えから)一人一人が、
明確に主の導きを受けるべきです。その為には、
私達にとって十字架の学びは欠かせないものとなります。

十字架は私達を聖霊に導き、聖霊は十字架に導くのです。
キリストの十字架を経過しない、ダイレクトな、人の魂にじかに
触れに来て、人の情感を掻き立てようとする多くの企てが
今日の特徴であり、この傾向はこれから益々、いわゆる
キリスト者達をさえ大いに惑わすことでしょう。
新約聖書の預言によれば、この潮流は防ぎようのないもの
であると私は考えております。

啓示は、キリストの復活と御座を経由して初めて
私たちに到達するものですから
私たちも先ずは、十字架の死の経験を通らせられるために、
日夜さまざまな「死の環境」が神によって私達の為に
許されているのではないでしょうか。


今日は終日 雨のようです。

2009年3月5日木曜日

ある兄弟へのメールから 2

今のところ次のように考えております。率直に書きます。

肉や「生まれながらの私達の本質そのもの」が「よくなる」こと等
期待できません。しかし、もしも私達の「肉・魂への認識」が真に
深まるならば、肉・魂が起き上がろうとする様な小さな兆しにさえ、
キリスト者は極めて敏感に反応するようになります。(その点からこそ
相違が生じるのです。)

その様な時、その人には(自分の決意を固めて肉に勝利しようとして
奮闘することなど最早なく)「あわてて直ちに」自分の
魂・肉を「キリストと私の共同の死という十字架」に
持って行くしか他に方法がなくなるのです。それは、おのれに関する
真の「知識」とその人の幾多の失敗体験から来る、
自分に対する一種の「恐怖反応」と言ってもよいものでしょう。

今理解の為に、敢えて「あわてて」とか「恐怖反応」などと言う強い
言葉を用いましたが、自分の肉を十字架にもたらす行為やその結果
その人に現れる振る舞いは、実際には他の人に不自然で大げさな印象を
与えることはないでしょう。その人の真の認識の故に、それらは
ごく自然に(多くは無意識的に、或いは内的に)行われる筈です。

(その様な時、或いはその後、十字架、即ち完全な死の向こう側に
おいてキリストの復活現象が現れます。しかし、キリストの復活現象は
夜明け前、あのマリヤにだけ現れたように、決して広く世間の耳目に
知られることはありません。)

この様な事は「いわゆる霊的知識」だけでは決して体得出来る
ものではないと思います。再度言いますが神の目から見て、決して
「天然の人」自体がよくなって行くことはないのです。

「生まれながらの人間」を改善する、これは何と「全能の神」にさえ
不可能なことでした!それ故、その神の唯一の決断は「神のあの行為」
「人」を全面的に徹底的に廃棄する、に至らざるを得なかったのです。

あるキリスト者達は「造り変えられる」と言う真理に関して
大きな誤解をしていると私は考えております。その誤解から、
他人と比較した落胆或いは不遜が生じて来るのではないでしょうか。
その落胆や不遜こそ、正に己なのです。

どんな人であっても、その正体は神に呪われた墓の下の腐乱死体
に過ぎないことを私達は決して忘れてはなりません。
だから自分の実態を真に見た人に、他人と比べた「うぬぼれ」など
あろう筈がないのです。ある腐乱死体が他の腐乱死体に
どんな自慢をするのでしょうか!

よく私を含め、キリスト者は自分の中に、ある変化を感じる時に
たやすく「もしかして私は霊的になったのかな」等と、と錯覚しがち
ですが、それは多くの場合「自分の肉・魂の正体を神によって
まだ見せられていない」明確な証拠に過ぎません。

いわゆる霊の切り分けは、魂側からの切り分け、即ち
「自分の魂の正体への深刻な認識」からもたらされるものでもある、
と私は思っております。


これから下山です。雪の林に朝の光が輝いています。

2009年3月4日水曜日

ある兄弟へのメールから

聖書の総ての真理に接する時、私達は絶対的に「遠近法」を
間違えてはなりません。焦点はただ生けるキリストです。
それも復活され、キリスト者と一つとなられた「今日のキリスト」です。
もしもそのキリストへのフォーカスが正当に行われるならば 
もろもろの他の真理は必要に応じ、適宜神によって開かれるでしょう。

とは言え今、神の目は「キリストの再臨」に向かっていることは
明らかです。近い将来、今第三の天の御座におられるキリストが、
外的に目に見える形で、全世界に臨もうとしております。
それは天と宇宙に時代の転換をもたらすでしょう。

更に、その天から地への外的なキリストの出現は、私達の日常に
おける私達の内面からの目に見えないキリストの出現(私達の肉体から
この時空・私達の環境へのキリストの出現)と必ず呼応するものであると
私は信じます。即ちそれは、キリストと反キリストの外的な動向を
私達の内的な動向から知ることが出来る、と言うことです。
ですから、破滅が突然私たちを襲うことなどあり得ません。


明白に神が働かれようとするとき、神の敵は密かに、
キリストの背後から、彼の御からだ、足のかかとに攻撃を加えます。
これは真に必然です。どうか今、兄弟が、ただ神の言葉を信仰によって
摂られ、その真理(敵の頭が砕かれたこと)を敵の眼前に
「かざされる」ようにと願ってやみません。

2009年3月3日火曜日

マルシアから、そのほか

こんにちは、
皆さんお元気でしょうか?
愛莉が1ヵ月半になり、元気に成長しています。1ヶ月検診では
生まれたときと比べ、1キロ増加し、2cmも伸びていました。
今、成長の過程によく見られる乳児湿疹が出てきたので、
顔がぶつぶつです。
ちょっとの間、可愛い顔をお見せできないのが残念です。

まだまだ授乳回数が多く、1日があっと言う間に過ぎてしまうような
感じですが、このところ私に心の余裕が出てきたような気がします。


Sugar:
私では難しいと思っていた赤ちゃんの写真を載せられたのは
ある方の御好意があったから。
ところで近いうち、松戸までほんものの愛莉ちゃんを
見に行くことになりそうですよ。
皆さん、有難う。


あさって下山です。10日間くらいは下にいるでしょう。
今はまだよい天気ですが、これから数日あまりパッとしない予報です。
でもこれも暖かい春へのきざし、どこか嬉しいですね。


今日とあす、壁に石膏ボードをはります。
居間の西面は野地板の縦張りと決めているのですが、
それは後になるでしょう。
この小屋、何と17、8年もかかってようやく今、お化粧段階に到達した
と言うところなのでしょうか。こんなの、他ではめったに聞かない話です。
しかしこのお化粧時間も、またまた相当長いものとなるでしょう。


この間(カン)電話で、あの野田の高山家のお爺さんの情報が入りました。
高山姉妹からですが、お父さんは腎臓の機能が正常値のわずか
2%しかない。透析が絶対必要なのだが、弱い心臓の為にそれは不可能。
それでも、今お医者さんが不思議がるくらい食欲は旺盛で、
すこぶる元気な93歳なのです、との姉妹のお話でした。
とは言え、こういうお父さんのケア等で大変な日々には違いなく、ただ
聖霊に従うことをしっかり学んで行きたいと言う高山姉妹でした。

もう一つの姉妹からの情報:
あの有名な三春の滝桜を全国から押し寄せる人の波をのがれて
鑑賞する方法とは、早朝4時ころ出かけること。
「なるほどなるほど、地元の強みでそれが出来るか。
じゃー今年は出不精の私も行って見ようかな。」
高山姉妹は三春が田舎なのです。
 

2009年3月1日日曜日

大村兄弟から

主の御名を崇め賛美します。
菅原兄弟
お祈り、御配慮を心より感謝します。

入院中は、娘に頼んで兄弟にメールをしてもらいました。

2月28日に少し無理を言って退院しました。
ただし、自己管理のもと自宅療養をしながら仕事をするというものです。
担当医からは、医学的には、再度心筋梗塞を起こした場合には
死ぬ可能性が大きいということでした。また、心不全をとても
起こしやすいのでその場合にも死の危険があるというものです。
その理由は、心筋細胞がかなり死滅しているからです。現在、
私は200m位はゆっくりと歩くことができます。自宅で寝たり
起きたりしながら仕事をする分には何ら問題がないと思っています。
首から上は元気なのですが、首から下の不具合に合わせて
生活する必要があるという状態です。

それにしてもお顔を拝見したことのない兄弟姉妹にもお祈り
いただきそれゆえに、兄弟姉妹お一人ひとりのうちに働く主の働きに
感動しています。ありがとうございました。
主にあって感謝しつつご祝福をお祈りいたします。

大村富栄


「キリストの再臨へと向かうこれからの神の大きな御旨」が
それを成就させる一点一点の進行において、
この私達の時代の只中で、
それらが神の敵によって決して遅れさせられることなく
速やかに成就されますように。

その御旨と絶対に無関係であるはずがない
大村兄弟のこれからの生涯の歩みの一こま一こまが 
その御旨の中、聖霊によって永遠の価値を有し
復活されたキリストの溢れる命を
この地上に流すものとされますように。
そのために、兄弟のお体と、そして御家族の必要が
ことごとく完全に満たされますように、
と祈ります。

主イエスよ、来たりませ!