2009年3月27日金曜日

神の御こころ3

ある書物によると
「御こころ」と訳された原語の意味は、
旧約では、
①心、内部、真ん中、等の意味、
②好意を持つ、と言う意味
③喜ぶ、と言う意味、
新約では
①意志、思い、から
②望む、志す、から
③計画、目的、等から「御こころ」と訳された、
と言うことになっています。
これが正しければ、日本語の「御こころ」と言う訳語は
問題なく的を得ていると言えそうです。

当然ですが、ここで私達が読み取るべきポイントは
御こころは、単なる神の「冷徹な計画」と言うことに留まらず、
神の心が強く反映されている何か、であると言うことです。
それは神の心からの願望、熱望なのです。

もしも、神が、旧新約の神の民にとって、真の「主君」である
とするならば(神が主であるならば)、主君の「心からの計画」
や「心からの望み」を、愛する主君の為に、それを実現して
差し上げたいと「お家」の家臣達が念願したとしても、
それは当然のことだったのでしょう。

さて、聖書とは「神の御こころを書き綴った書」であると言っても
そんなに間違いはないでしょう。従って、歴代の忠信なる神のお家の
家臣達は、先ずは聖書を懸命に読み調べ、そして彼らは遂に、神の
御こころを突き止めるに至ったのです。それ故、彼らは大いに喜び勇み、
そして、彼らの中のある者たちは、彼らの為に真実を捧げ尽くされた
愛する主君の御こころ実現の為に、彼らの命さえも喜んで捨てて行った
と言う無数の歴史的事実は、余りにも当然の成り行きであった、
と言えるでしょう。

私達が、今でさえ赤穂の忠臣の話に心を打たれるのは、それを
聞くとき、私達の意識を超えたある認識の中で、目には見えない
「真の」主君や、宇宙にある「真の」お家、と言うものに、
その時、私達の心が深く繋がって行くから、かも知れません。

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