2009年11月30日月曜日

天地の人

いわゆる最後の晩餐で語られたイエスの言葉は 
全聖書の中でも大きなピークを形成します。

14章2、3節:
あなた方のために、
「私」①は
「場所」②を備えに「行く」③のです。私が行って、
あなた方に「場所」②を備えたら、
また来て、
あなた方を「私自身」④に迎えます。
「私のいる所」⑤に、あなた方もおらせるためです。


「私」①とは
これから正に十字架に向かおうとしておられたイエスです。
「行く」③とは、
即ち十字架に付くことです。
「場所を備える」とは 
イエスが十字架に付けられ、復活することです。
次に 少々むずかしいのですが、
「場所」②と「私のいる所」⑤とはどちらも 
復活後のキリスト 即ち「私自身」④です。

今既に
「その場所、イエスのいる所、イエスキリスト御自身」の中へと 
彼は わたし達信じる者達を迎え入れました。
15章に来ると
復活のキリストを信じる者達をも含んだ 
言わば「天地にあるキリスト」を彼は
宇宙的一本の「ブドウの木」にたとえておられます。

最後の晩餐における他のことばも総て
一つこの思想の表明の為であったのであり、
そして全聖書の総ての糸は
「一点この天地のキリスト」に集結されている
とさえ言えるのではないでしょうか。

旧約のヤコブ、イザヤ、エゼキエル、
新約のナタナエル、ステパノ、パウロ、ヨハネ達が
見させられ、畏れ 倒された幻の本質とは 
実はこの「天地にある現在のキリスト」です。

ですからわたし達も 今ゼヒとも この現在のキリストを
見、畏れ、倒され、わたし達の全生涯を、ただその幻によって
支配、制御していただく必要があるのです。

2009年11月27日金曜日

キリスト者の戦い

ここに二者があります:
①あなた自身 と 
②あなたに迫り 取り囲み 粘りつき、あなたに固着し、
閉じ込め 圧迫し、押しつぶすようにして 
あなたを何とかして 命なる神から切り離そうとする
有形無形の暗闇からの死の力です。

そこであなたは
この二者①と②を むしろ一つにして(もう一つとなっている!) 
「今 正に十字架に釘付けられようとするイエス」の中に
しっかりと置かなければなりません。

どのようにして置くのか?それは:
それを意識し 神に祈り、そして次にハッキリと声に出し
「全宇宙に対して」宣言することによります。
「宇宙の全被造物よ、私は今、
①私自身と 
②私に付きまとい、私に固着し、私を閉じ込め、圧迫する
この状況の一切をイエスの中に置きます!」と。
こここそ最大のポイントです。

もしも あなたが以上のことを 神の御前にて、
真実を込めて行うならば
間もなく 永遠のイエスの完全な死の効力が 
今 時空の中にある①と②に伝達され
イエスの死が ①と②を切り離し、隔絶して下さるでしょう。
なぜなら 死は決して消滅ではなく、
死とは分解であり、切り離しであり、隔絶であるからです。

そして3日後に(しかるべき時に)神は
①だけをイエスと共に 復活の超越へともたらして下さるでしょう。
②即ち、旧創造に属するものは墓と黄泉へと送られ、いずれ火で
焼かれます。以上がキリスト者のなすべき戦いの多くの
ケースであると 私は考えております。

それはあたかも まるで あの時のイエスのようです。
あなたは信じられるでしょうか、彼は文字通り、
サタンから来る一切の死の状況を静かに受け入れたのです。
ああ、それこそがイエスに対する神の御こころだったとは!

しかし、私たちは神を賛美します、その情景の背後に、
敵の小ざかしく邪悪な策略を 遥かに凌駕する
「神の超越した英知」が存在したのです。

ですからそのような時に あなたは愚かにも 
目に見える形であなたに襲いかかるこの世の不正に対し 人の魂を
起源とする小さな「正義」を振りかざして戦うようなことをしては
なりません。(それは何と キリストの十字架を無効にする行為
であることを知るべきです!)キリストの十字架の効果が及び
得ない所、確かにそこには あなたを更なる死(神の敵からの死)
と言う泥沼へと引きずり込む敵の謀略が待ち構えているのです。

その時 あなたに要求されることは 
唯 あの時のイエスのように 
崇高な愛と 絶大な能力を秘めた神への完全な
信頼なのです。


しかしながら、以上は 決して 
あなたがぼんやりと 総てに対して受身になることを
意味しているのではありません。
それは敵に対しては むしろ極めて危険です。いついかなる状況に
おいても 私たちは 自分の意志を堅く保ち、しっかりと 
神の御心の側に立つ必要があります。

ですから、
私たちは もう一つのキリスト者の戦いの側面 即ち:
「初めから 敵に対して 復活の命によって対抗しなければ 
ならない戦い」についても知り、それに練達しなければなりません。
これらについては 今後更に 学んで行きましょう。

2009年11月25日水曜日

エクレシアの集まりは

エクレシアの集まりは 
変幻自在、伸縮自在、臨機応変、そして神出鬼没です。

ですから、一度たりとも そこに先回と全く同じもの
ある固定、安定、形式が感じられるとしたら、それは
復活のキリスト以外の何ものか であると見なすべきです。

多分それは 
先ずは私が率先して、キリストと共に十字架上で 
死ななければならないことを示唆しているに
違いありません。

ある死と復活

あなたの命とさえ言える 
決してあなたと切り離されることのなかった 
あなたのあの長年の切望を、しかしあなたは 
確実にイエスの中に置かれました。
あなたのしたことは ただそれだけでした。

しかしイエスは 
「その願いと一つであるあなた」を内包し 
あなたと共に十字架に行かれたのです。

ただそれだけで あなたは いずれ 
必ずイエスと共に復活するでしょう、
「あの古き着物」を墓に置き去って・・

私たちの生活は実に単純ですね。
ああ、賛美を神にささげるのみです!

(ヨハネ20の5~7)

2009年11月22日日曜日

あるメールから

・・・
さて
兄弟に対する「その語りかけ」 
それは確かに上から なのでしょう。

「ある聖霊の促しを感じる→しかし応じ切れないor
どうしたものかと思案する→心が騒ぐ、落ち着かない→
ある実行or 不実行と言う服従によって静かな平安を得る。」
これは推論、理屈、私の都合等を超えて 
「御心把握」への一つの行程です。

「この道」とは ある意味
一人一人が 主の前で「その単純作業」をするだけでよい
と言う簡明な道であると思います。

その場合 恐らく「人の非難」を受け、恥辱をこうむるという
「私の魂が傷を負い、そして魂が失われる苦痛」は避けられない
ことさえあります。しかしそれは
「営所(宗教)」の外に引き出され 主と共に暗黒の谷間を通り 
遂には十字架に付けられると言う ヘブル書13章に見る 
極めて貴重な時間帯となります。しかしこのことは 
ある経過をへて、兄弟が一人 主の復活を確かに目撃し そして
「密かな真の礼拝」をささげるという栄光ある時間に繋がるでしょう。

これこそが
生ける復活の主の御業を地上、時空の中で拝する
ための唯一の条件ではないでしょうか。
1世紀も21世紀も これ以外の方法で
「永遠の主の業」が「時空に」出現することはあり得ません。

ますます兄弟が、人ではなく
「主のみに」従われますようにと願ってやみません。

2009年11月19日木曜日

世界一の車屋さん

実は11日 
家内が自動車事故の当事者になってしまいました。
詳しいことは今言いませんが
まー何と幸いなことに、被害者、加害者とも人身への
損傷は全く皆無だったのです!

ま、話はそこまでは極めて「めでたし」だったのですが、
しかし結局 妻の愛車・パジェロミニは哀れ廃車となって
しまったのです。

「かかりつけの」地元の業者は 次の車の値段について、
手練手管で、随分高いことを言います。私は一寸腹が立ちました。
車両保険にも入っていなかった妻は「もうパジェロミニには
乗れない、更に安い軽自動車を買うしかない」と
覚悟を決めたのです。

そこで私は 
遠い福島から車を買うなんてとてもムリ、とは思いつつも
念のため、山で車のお世話になっている郡山はカタソネマイカー
の社長に 相談だけはして見ようと思い立ったのでした。

ここで面倒な話は総てハショリます。結局どうなったか:
何と何と極めてリーズナブルな値段で、社長は妻の為に
ワインレッドの パジェロミニをお世話して下さったのです!
実家の妻の歓喜は言うまでもありません。それは今社長の
奥さんが乗っているパジェロミニを事もあろう 私の妻に回す
という裏業を彼は発揮されたのでした。

このカタソネマイカーの社長が どうして
世界一の中古自動車屋さんであるのか、それを
ここで詳しく述べる煩に私は今耐えません。しかしとにかく
結論として この社長は世界一の車屋さんなのです。
人生 私は新車なるものを一度も買ったためしがありません。
何故なら、この社長に一言頼むだけで、車について私は
一切何も考える必要がないからです。
こんな楽チンことはないではないですか。

私が中古車購入について、
どうしようもない偏見を持っていることは明らかでしょう。
しかし今回もまた、私はこの社長こそ、間違いなく世界一の
車屋さんであるとの確信を一段と深め、強めたのでした。
それは あなたも一度だけでいい、彼から車を買って見れば
直ちに分ることです。

(かように私のように 彼から車を買った人が皆 頼まれもしないのに 
いつの間にか彼の「営業マン」になってしまうのです。ですから、彼は
「車が売れて売れて時間がいくらあっても足りない」と嬉しそうに
毎日ボヤいているのです。)

ある黄金律

*昨日のメールから*
キリスト者は常に
単純 簡単で、決して動くことのない素晴らしい黄金律
を持っているように思います、それは・・

「いついかなる場合でも、そして 
何がどうであったとしても
ただ神を信じる」

私達の主は 十分に
これに値する神なのではないでしょうか。

昨日小屋に舞い戻りました。
正にここは晩秋、
早い早い夕闇が もうあたりを包み始めております。

それでは。

2009年11月14日土曜日

もしも あの復活が無かったのなら

今 日本に キリスト教やクリスマスはありますが、
キリストはおられません。
人々は「キリスト者がどうであるべきか」は論じますが、
「日本にキリストがおられない」と言って嘆く人はおりません。
人々はクリスチャンの罪について糾弾し合いますが、
「キリストそのもの」がおられなくとも全く平気のようです。
それでも少数の人々は キリストについて語ることが
あるようです。しかし「そのキリスト」は絵に描かれた餅に過ぎません。

要するに今日、
「キリストの復活はなかった、それは昔の人の幻想であった」と
言う大きな前提の上に 総てを築き上げようとしている、
ように私には見えます。
もしもキリストが復活されなかったのなら、なるほど
前述のようなことになってしまうのでしょう。
事の真相を解く鍵はどうやら この点にあるのではないでしょうか。

しかし事実はこうです、
もしもキリストが復活されなかったのであれば、
キリスト教の一切は無益です。
それは糞土以上の何物でもありません。
それが「最上質のキリスト教」であったとしてもです。
もしも復活がなかったのであれば、
パウロの宣教の意味さえ崩壊するでしょうし、
世界の存在にもいかなる価値もなくなります。
何故なら 全世界の栄華も その本質は
「数秒間だけきらめくだけで消えてゆく線香花火」と
何ら変わるものではないからです。

しかし、
もしも「永遠という実体」が、本当に
存在しないのであれば まだしも!

ですから
大切なのは 正当なキリスト論ではなく、
正しい復活のキリスト論でさえなく
復活された永遠の中のキリストそのものです。
今世界に必要なのは「正真正銘のキリスト」と言う 
復活されたお方の 生きた存在以外の何ものでもないのです。
なぜなら、神が人に真に与えたいと切に願っておられるのは
復活のキリストの中に実在する
「永遠と言う確固たる実質そのもの」であるからです。

2009年11月11日水曜日

キリスト発見

人が彼の人生において もし、キリストを発見しなかったなら、
その生涯にはどんな意味もありません。

たとえ彼が仮に、全宇宙を所有することがあったとしても 
もし彼がキリストを発見しなかったならば、その全宇宙の
所有には少しの価値もありません。

あれを経験し、これを楽しみ、あれを知り、これの詳細を研究し、
その本質を突き止めたとしても もしも彼がキリストを発見
しなかったならば、その人生は無です。

また彼が多くの人の賞賛を得、仮に地球上の殆どの人の心を
掴んだとしても もしも彼がキリストを発見しなかったなら、
その人気と名声にいかなる益もありません。

なぜなら、目に見えるもの総ては 必ず過ぎ去って行くからです。
ですから私達はいかなる代価を支払ったとしても 目に見えない
真の実質「今日のキリスト」を発見しなければなりません。



まだ実家におります。
山行きは多分 17日になると思います。

2009年11月7日土曜日

別訳です

その後 漢詩に詳しいある方(日本人)の協力により「獄中の
ウォッチマン・ニーに関する証」に掲載されていた漢詩の訳文と、
その他の箇所についての解説を得ました。参考にしてください。


1)
まず、「監長」と「獄長」の違いを説明した中国語の文章が
ありましたが、その訳は、「監長は監獄の監房のトップ、獄長は
監獄の十の監房の最も上のトップです」となります。

2)
次に、ハンガリー詩人、ペテーフィ・シャーンドルの書いた
詩の訳です。


「生命(いのち)はまことに貴重なものであり、
愛情はさらに高価だが、
自由のためであるならば、
この二つともを捨てていいことがある。」

"ペテーフィ・シャーンドル"Petofi Sandor
ハンガリーの愛国詩人(1823-1849)
「愛国者の歌」「民族の歌」等の作者として
知られている。(辞海―上海辞書出版)

3)
手記の著者がウォッチマン・ニーと白茅嶺で再会した時に
詠んだ詩の訳です。
(原文:彼此依依相見晩,主有安排難預感;
    本是同袍同澤人,皖地重逢敘忠悲。)

わたしたちは二度目に安徽省の白芽嶺労改農場で再会した。
そこで一緒にさらに五年間を虚しく過ごさねばならなかった。
出逢った時、二人共とても感動し、わたしは一遍の詩を作った。


「互いにどれほど懐かしく思っていたことだろう
なのに再会の機会はあまりに遅く訪れた
主の計らいを予知することは難しい
もともとは同郷人であるはずなのに
安徽省の地で再会させられるとはとても悲しい。」

労改=「労働改造所」とは思想を矯正するために収容する刑務所
のこと。強制労働に従事させられる所。

4)
ウォッチマン・ニーが獄中で妻の訃報に際して詠んだ歌:


「千回も泣き、千回も叫んだ、
聞き慣れている君の声、
どうして返事をしてくれない?」

わたし(=手記の著者)はこの詩を読んで、
次のように続きを書いた、


「何回も報告し、何回も請願を出した、
肉親の葬儀に駆けつけたい人の一途な思いを
どうして許可してくれないのですか?」

2009年11月6日金曜日

展開力(3)

キリストの死があれば、それは必ず復活に繋がります。
そしてそのキリストの復活は一つの法則として ある展開を見せるのです。
この展開力は完全に「復活のキリストのもの」であり、その実体は聖霊です。
初代のエクレシアに見られた「御ことばの成長、拡大」は、決して生身の
地のチリである人の体と魂という起源から発したものではなく、
その正体は天的展開力を伴う復活のキリストでした。

この素晴らしい復活と展開と言う現象を楽しむ為にはどうしても、人の
完全な死を待たねばなりません。人の完全な死を見届けて初めて
復活があり、そしてそれが次には展開という結果を見せるのです。

展開は復活のキリストの力の表示です。それは 極限まで十字架に閉じ
込められ圧迫されたもの、即ち「完全な死」の中から「究極的な命」
としてのキリストが 時空の中に復活として現わされ、次に流れ出、
表示され、展覧されたものです。それは植物の一粒の種が地に落ち 死を
経過し、復活すると、その命の展開が始まるようなものかも知れません。
その現象は私達の目には萌芽、成長、開花などとして観察され 
人の癒し 慰め 喜びとなります。

福音書のキリストイエスはどうしても地に落ち、埋められなければ
なりませんでした。しかしそれは福音書の最後において復活し、
使徒行伝において その展開が開始され、更にその内的に隠されていた
無限の神の力は 展(ひろ)がり 開き続け、それは 書簡を経て 
遂には黙示録に至るのです。復活と展開、それは「死と戦い、
死に勝利し 死に勝ち誇る命」と言う気宇壮大 かつ極めて詳細な
神の物語を私達に告げているものに違いありません。



今日は下山です。
無風快晴、朝日を背景にしたとても美しい「紅葉の最期」が
南の窓からのぞかれます。これから準備をしますので、
出発は10時頃になるのでしょうか。

2009年11月4日水曜日

展開力(2)

*人は邪魔*
神の業を行うと言うことに関する限り
神はとにかく人が邪魔で邪魔で仕方が無いのです!「邪魔」とはよく
言ったものです。私達は この漢字をよくよく見つめる必要があります。
私達が 神の為にしようとすることは総て「効果ゼロ、無駄」である
だけでなく私達の行為は「邪魔」以外の何物でもありません。

だから神はその邪魔な人間と その総ての業を 取り除くだけでなく、
何と 呪う必要さえあったのです。それ故に、「あの木の上の人」は単なる
死刑「石打ち」ではなく、木の上部に釘付けられ、つるされて「宇宙の
さらしもの」とされ 神に十分に呪われる必要があったのです。

あの人とは誰ですか、あの罪人(ざいにん)とは実は 私やあなた
ではなかったのでしょうか!神が「完全無垢なお方」を死刑に
処することなど 絶対にあり得ないからです。もしもそんなことがあった
とするならば宇宙は直ちに崩壊したでしょう。もしもあの時、私やあなたが
そこにいなかったとするならば、神は御自身の義を全面的に捨て去った
ことになるのです。何故なら、神は無罪の人を死刑に処してしまった
からです。

しかし、事実 神は冤罪を犯しませんでした。なぜならあの時、神に呪われ、
死刑となったのは正に私やあなたであったからです。故にそれは完全に
正当な刑の執行となりました。ある歌にあるように あの時「イエスとの
一つ」の中で「君も私もそこ(十字架上に)にいた」のです。

私達人は神が 何かをされる際の 最大の障害物です。ですから、人が
十字架の真の意味を知らずして、神のために何かをしようと企てる時、
神はきっと、とてもハラハラされるでしょうし、またその後では、その
あまりの忌まわしさの故に 完全に無視し 顔をそむけさえするでしょう。
大変な努力や、多額の献金も 断食の徹夜のお祈りも 全く効果がない
のはそのためです。神の業の実行において、私達はあまりにも
危険であるのです。

展開力

*異次元の力*
神は 人に命じられたことは総て、神自らがそれを実行されます。
これは最大の原則です。人は「神が私に命じられたのだから、
私がそれを実行するのだ」と勇み立ちますが、人には本来 
神の命令を実行する力は全くありません。

何故なら、今日神が、彼の業を実行される時、神は必ず「異次元の力」
だけを用いられるからです。異次元の力、それはキリストの復活の力
であり、復活のキリストです。それは全く異次元のものです。それを
人のどこを探しても 探し出すことなど不可能です。

神は これ以外のものを評価し、用いることは絶対にありません。
何故なら、それ以外のものを 神は総てあの木に釘付けてしまわれた
からです。「神の最大の思いが表明されたもの」それがあの十字架
ではなかったでしょうか。十字架とは「総ての否定」です!

そして、復活とは無制限のキリストです。その「キリストの無制限さ」
が今日、神が「人に要求する異次元の力」です。しかしながら、
私達のどこにそのような力がありましょう。

従って、その場合 
唯一つの 神の人に対する要求があることになります。
それは私達が死ぬことです。しかし、死ぬことが要求であるとは
不思議だと人は思うでしょう。「死ねば何も始まらない」と人の理性は
考えるからです。しかし、そここそがポイントです。(もしもあなたが
完全に死ぬならば、あなたは素晴らしい復活のキリストの業を拝する
ことになるからです。しかし、このことは後日に回すこととして・・)

2009年11月3日火曜日

大雪模様

*昨夜のメールから*

早速のメール とても嬉しいです。
ずいぶんお疲れでなかったのかなと
心配しておりました。
なにしろ 今日から勤務されるとか。
それにしても 凄い気力と体力ですね。

子供達はだいじょうぶでしたよ。
子供は子供、当たり前のことではないですか。
どうか、これにコリルことなく、また
いつでもいらして下さい。

私の世界一分かりにくいブログは
http://yamaxst.blogspot.com/
でも、時々普通のことも書きますから、
たまにはのぞいてみて下さい。

センセイでなく、シュガーさんとでも
呼んでくれたら、嬉しいのですが・・
(ま、マルシアはしかたがない、としてもね)

何と何と今、外は大雪模様です! 
でも、みぞれのような雪ですから
多分明日、車が動かないことはないでしょう。

それではこのへんで、
シュガー

2009年11月2日月曜日

謎の行動

おとといの事です、
セージとマルシアは いつもの最短コースである 浜(海辺)
からでなく、逆方向 船引三春インターを下りると言う。
(何でまた?)

そのあと彼らは、
船引のスーパーで 食材と私がお願いした「秋のツタ」を
買い終えて 改めて288(ニーパッパ)を浜方向に走る。
そして何と小屋に上る林道前を素通りし更に 今回初めてのセージの
お姉さんのために 草野心平で有名な温泉・川内の湯に向かったのです。
入湯後、そこからようやく、更に30分をかけて はるばると小屋に
戻り着いたのです。以上これは 大変な「行ったり来たり」ではないか
セージさん、いつものスーパーは浜にあるのに、なぜまたこんな長距離を?

そのわけは、 
10/28の 私の記事にあったのです:
電気工事の免許を持つセージさんは
あのレンジフード取り付け用の電気材料を買うには
どうしても 船引の量販店に寄らなければならなかった。
セージさん、ホンとにありがとう。
そして皆さん 大変にご苦労様でした。

PS.
今回の工事は不可能となったレンジフードの代わりに、
彼は 洗面所ライトのスイッチを付けてくれました。

2009年11月1日日曜日

バーベキュー

EMさん
昨晩 南デッキの、夜のバーベキューはよかったです。
寒かったけど、赤々と燃えた炭火が暖かいので 
適度な幸せを皆さん感じていたのかな。

バーベキューというのは えんえんと いつまでも食べて
おられるのが不思議です、なぜでしょう。

セージさんとよく似た 三つ年上のお姉さん、
二人の子供の面倒を見ながら、はるばる千葉から 
一人で運転して よく来てくれました。
一泊だけで 明日は勤務にでられるとか。

(そんな中「あの鳩」が彼ら一人一人を訪れますように。)

送ってくれた小屋の写真 ありがとう。
私もそろそろ そんな写真を
マイブログに載せられるようになりたいです。
今度来られたときに教えてくださいませんか。
デジカメはあるのですが、どうも面倒で・・

もう下では 起き出した人もいるようです。
今6時4分、ロフトの南の窓からのぞくと、
空は晴れ模様、上では風が巻って
秋の木の葉が下の小道を埋めています。

それでは また。