2009年11月14日土曜日

もしも あの復活が無かったのなら

今 日本に キリスト教やクリスマスはありますが、
キリストはおられません。
人々は「キリスト者がどうであるべきか」は論じますが、
「日本にキリストがおられない」と言って嘆く人はおりません。
人々はクリスチャンの罪について糾弾し合いますが、
「キリストそのもの」がおられなくとも全く平気のようです。
それでも少数の人々は キリストについて語ることが
あるようです。しかし「そのキリスト」は絵に描かれた餅に過ぎません。

要するに今日、
「キリストの復活はなかった、それは昔の人の幻想であった」と
言う大きな前提の上に 総てを築き上げようとしている、
ように私には見えます。
もしもキリストが復活されなかったのなら、なるほど
前述のようなことになってしまうのでしょう。
事の真相を解く鍵はどうやら この点にあるのではないでしょうか。

しかし事実はこうです、
もしもキリストが復活されなかったのであれば、
キリスト教の一切は無益です。
それは糞土以上の何物でもありません。
それが「最上質のキリスト教」であったとしてもです。
もしも復活がなかったのであれば、
パウロの宣教の意味さえ崩壊するでしょうし、
世界の存在にもいかなる価値もなくなります。
何故なら 全世界の栄華も その本質は
「数秒間だけきらめくだけで消えてゆく線香花火」と
何ら変わるものではないからです。

しかし、
もしも「永遠という実体」が、本当に
存在しないのであれば まだしも!

ですから
大切なのは 正当なキリスト論ではなく、
正しい復活のキリスト論でさえなく
復活された永遠の中のキリストそのものです。
今世界に必要なのは「正真正銘のキリスト」と言う 
復活されたお方の 生きた存在以外の何ものでもないのです。
なぜなら、神が人に真に与えたいと切に願っておられるのは
復活のキリストの中に実在する
「永遠と言う確固たる実質そのもの」であるからです。

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