今のところ次のように考えております。率直に書きます。
肉や「生まれながらの私達の本質そのもの」が「よくなる」こと等
期待できません。しかし、もしも私達の「肉・魂への認識」が真に
深まるならば、肉・魂が起き上がろうとする様な小さな兆しにさえ、
キリスト者は極めて敏感に反応するようになります。(その点からこそ
相違が生じるのです。)
その様な時、その人には(自分の決意を固めて肉に勝利しようとして
奮闘することなど最早なく)「あわてて直ちに」自分の
魂・肉を「キリストと私の共同の死という十字架」に
持って行くしか他に方法がなくなるのです。それは、おのれに関する
真の「知識」とその人の幾多の失敗体験から来る、
自分に対する一種の「恐怖反応」と言ってもよいものでしょう。
今理解の為に、敢えて「あわてて」とか「恐怖反応」などと言う強い
言葉を用いましたが、自分の肉を十字架にもたらす行為やその結果
その人に現れる振る舞いは、実際には他の人に不自然で大げさな印象を
与えることはないでしょう。その人の真の認識の故に、それらは
ごく自然に(多くは無意識的に、或いは内的に)行われる筈です。
(その様な時、或いはその後、十字架、即ち完全な死の向こう側に
おいてキリストの復活現象が現れます。しかし、キリストの復活現象は
夜明け前、あのマリヤにだけ現れたように、決して広く世間の耳目に
知られることはありません。)
この様な事は「いわゆる霊的知識」だけでは決して体得出来る
ものではないと思います。再度言いますが神の目から見て、決して
「天然の人」自体がよくなって行くことはないのです。
「生まれながらの人間」を改善する、これは何と「全能の神」にさえ
不可能なことでした!それ故、その神の唯一の決断は「神のあの行為」
「人」を全面的に徹底的に廃棄する、に至らざるを得なかったのです。
あるキリスト者達は「造り変えられる」と言う真理に関して
大きな誤解をしていると私は考えております。その誤解から、
他人と比較した落胆或いは不遜が生じて来るのではないでしょうか。
その落胆や不遜こそ、正に己なのです。
どんな人であっても、その正体は神に呪われた墓の下の腐乱死体
に過ぎないことを私達は決して忘れてはなりません。
だから自分の実態を真に見た人に、他人と比べた「うぬぼれ」など
あろう筈がないのです。ある腐乱死体が他の腐乱死体に
どんな自慢をするのでしょうか!
よく私を含め、キリスト者は自分の中に、ある変化を感じる時に
たやすく「もしかして私は霊的になったのかな」等と、と錯覚しがち
ですが、それは多くの場合「自分の肉・魂の正体を神によって
まだ見せられていない」明確な証拠に過ぎません。
いわゆる霊の切り分けは、魂側からの切り分け、即ち
「自分の魂の正体への深刻な認識」からもたらされるものでもある、
と私は思っております。
☆
これから下山です。雪の林に朝の光が輝いています。
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