2009年3月29日日曜日

ある質問に答えて

復活とは
Aを消滅させ、天からのBを、Aのあった所に入れ換える事ではなく、
AはあくまでAとして、その古き要素は捨て置き、Aそのものの中に
天的要素を入れ込むことです。

人そのものについて言えば、十字架において
神は人を全く消滅させること等決してなく、復活において
人に復活の天的要素を入れ込む、或いは人を
「復活という要素」と一つとする、と言うことだと思います。

人の魂の機能をエンジンの機械部分とし 
その魂の命を電気(或いはガソリン)に例えるならば
機械も電気も「旧物質」であり、旧創造なので、これらは
十字架と言う手段によって墓に捨て置かれなければなりません。
しかし、その意味は、神が人の魂の機能と命(機械と電気)の
総てを墓の中で永遠に消滅させると言うことではありません。

神は
A「人の復活した電気」(復活した魂の命)と
B「天的な電気」(聖霊)とを一つにして下さるのです。
そのようにして一つとされた天の命(エネルギー)によって、
私達は将来 永遠の中で、いつまでも人として生きることに
なるのです。聖霊には死と復活は必要ありませんし、
あり得ません。余談ですが、神は人(物質)となられたイエス
において、死が初めて可能となったのです。

神は神が創造された人のいかなる部分、人の魂の機能と
魂の命も失敗作として「完全破棄」されることは決してなく、
それを天的な要素と一つに結合されるのです。
その為には先ずもって、古き要素だけは必ず、
十字架において破棄されなければならなかったのです。


それにしても、復活とは不思議です。
死による完全な終結の後で、その原型を留めたまま、
それが、天の成分、復活と言う要素で満たされ得るのです。
(或いはこれを「新物質」と呼んでも許されるかもしれません!)

しかし、これは人の知性にとって、その理解は極めて困難です。
何故なら、人の辞書では、死・終結とは、新しい開始など
絶対にあり得ない完全な「終わり」を意味するからです。
人の「旧物質である頭脳」の知的能力は、その対象がただ旧物質
と言う範囲内に留まらざるを得ないのであり、それが死と復活と言う
経験を経由すること無しに「新物質」に及ぶことはあり得ないからです。

神は、彼がせっかく創造されたキリスト者の
いかなる部分(魂の命でさえ)も決して完全消滅されません。
実の所、消滅されないどころか神はどうしてもそこに、
復活という要素をプラスされることを永遠の過去において、彼の
喜びの中で計画されたのです。これは真に人には及びもつかない
途方も無いアイデアであったと、私達は畏れと驚嘆の中で
言わなければならないのです。

十字架は完全な死であり完璧な終結なのですが、
しかし何と、その後、それに復活の要素を入れ込むことを
可能とするお方が私達の神なのです。

もともと「時間の中における人の創造」にも終結と言うものは
無かった筈です。しかしこの場合は、単にエンドレスな時間という
意味での「永遠」に過ぎませんでした。しかし単にエンドレスな
時間というものには決定的に何かが欠けているのです。それは
究極的な満足を神に与えることはあり得なかったのです。
復活なくして、神が永遠に満ち足りることは絶対にありません。
復活こそ、神の心なのです。

そこで神は、サタンの故に、サタンから出てきた
終結(死)というものを、神の至高の知恵によって、
時間の中においてそれを「活用された」のです!

時間の中で死は完全終結です。従って時間の中に存在する
旧創造・旧物質は死によって完全に終結されます。しかし、もしも
ここに、キリスト・イエスにある神御自身が介入されるのであれば、
イエスの復活において、死・終結は完全打破されるのです。それは、
神に創造されたいかなるもの(時空と万物)も創造者御自身に勝る
ことなどあり得ないからです。敵によって汚染された万物を完全終結し、
しかもその万物を生かして、それを「新物質」とする唯一の手段、
それが死と復活であったのです。
ここに初めて人は復活において「卓越した永遠」と
一つに結合されることが可能となったと言えます。

当然この場合の「卓越した永遠」とは、繰り返しますが単に「旧物質」
であるエンドレスの「旧時間」ではありません。それは全く異質の
超越した実質です。敢えてそれは何かと問われるならば、卓越した
永遠とは、イエスの死と復活を経過して初めて人の中に導入されるべき
現在のキリスト・イエス御自身にある「永遠なる神」である
とでも言わざるを得ないでしょう。

信仰とは結合を意味します。従って信仰がなくては「復活と
卓越した永遠」に対して人が結合されることはあり得ないのです。
しかし人はイエス・キリストとの信仰による結合において、
今既にそして未来において
「復活を伴う卓越した永遠」そのものを内にいただき、同時に
「復活を伴う卓越した永遠」の中へと入り込むことが可能となるのです。

☆おことわり:
以上の文は、ある人のある質問に答えたものです。従って
分かりにくい所も多いのではないかと懸念しております。

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