2009年3月31日火曜日

ある試み「腑に落ちる」

A:人への神の直接的な語りかけは、人の霊以外の場所に対して
行われることは絶対にない。他の、人の機能(魂や体)への
ダイレクトな感覚はむしろ神の敵からの感覚であることが多い。
だからキリスト者は「人の霊」に対する神からの「感覚を超えた
かすかな感覚」をキャッチしなければならない。
これはキリスト者にとって極めて重要かつ、
実際的実践的な日々の課題である。」

B:しかし、とは言っても、上記のことの実行は容易なことでは
ありません。何故ならこれを実行する為の基礎部分には、
単なるハウトゥでは片付かない多くの「深い学び」が
要求されているからです。

しかし私は、もしも主が許されるのであれば、
ここである試みをして見たいと思うのです。それは今述べたBと言う
「深く重い学び」はとりあえず脇に置き、いきなりAに入り込んで見たら
どうなるのか、と言うことです。(実際経験では、AとBとは、後になり
先になりして進んで行くものでしょうが・・。)


そこでここに、ある兄弟の体験を紹介します。
しかし当然のことながら私は、この兄弟の記述と経験が、神の真理に
照らした上で、全く総て正しいと言いたいのではありません。
これはあくまで、彼独自の追及と実行に過ぎません。
また「彼にはBの学びがない」などと言うつもりも毛頭ありません。

ただ確かに言えることは、この兄弟の体験は、私達にとって大いに
参考になり、そして多分私達の助けにもなると思われることです。
少なくとも今この兄弟には、ややもすると私達に見失われがちな
主を思う心と若さ、そして実践力があるのです。これは貴重な要素
であることは明白です。主は御自身の為に「夢中になっている魂」を
愛されることはいつの世においても否定出来ない事実なのです。
 

N兄弟:
いわゆる「腑に落ちる感覚」というものが一番大事かと思います。
魂の部分で「こうだ!」とか、「こういう啓示を受けた」と思っても、
内側がざわめくとき、それは決して上手くいきません。

しかし逆に、魂の部分で「嫌だな」と思っていても、内側の霊に
深い安息と、時として沸き立つような喜びがあるとき、それは必ず
上手く行きます。魂の部分と内側が同調して、魂も内側も深い安息と
沸き立つような喜びがあるとき、それは絶対に上手く行くのです。
それを私はまとめて「腑に落ちる」と言っています。

以上が、私が短い「経験測」より導き出した答えです。霊の語りかけが
不明確でささやかなとき、私が行うことは「主よ、しもべはここに
おります、聞いております。どうぞお語りください。」という短い祈りです。
するとそれは御言葉による祈りですから、邪霊やサタンは引き下がり、
御声がはっきり聞こえるようになります。

ただし、この前提として必要なのは、
・主は生きておられ、私に対して明確に語る御方であると知ること。
・「何でも内なる油に聞きなさい」ということを知ること。
・そして、その二つを、自分に適用するという意味において、
自分の意志を用いて信じることです。
もっと簡単に言うと「霊に語られる言葉は神様の言葉である。
神様とケンカしても勝てないから、逆らわないのが利巧」である、
要は「聖なる打算」の下に、神様に「白旗」を上げることである、
と私は考えております。

それでも、自分の思いか御声かわからないときには、
神様に丸投げしています。

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