2009年3月30日月曜日

あるメール交換から

N兄弟:
私達は、どんなことがあっても、周りでどんな教えの風が
台風のように吹き荒れても、イエスにとどまり、御言葉に
留まり、そして御父に留まるべきと考えます。

Sugar:
アーメン!それこそが信仰の真髄です。
信じるということの本質は、実は感覚よりも意志の中にあります。
「神の御こころ・御ことば・神の意志」を、私の意志として取り、
受け入れ、その上に堅く立つのです。その時に、私がどう感じようが
何を思おうが、その感覚や考えに神はあまり関心を寄せられません。
神は、私達がただ彼のことばを率直に信じて欲しいのです。

私自身のことを言えば、信じた後、強い幸福感をよく経験する者
なのですが、その時喜び過ぎて、その感覚を見つめることは
決してよい結果を生みません。下手をすると、私はこんなにも
臨在感覚や天的感覚を感じることが出来るのだから、きっと霊的に
大いに進歩したに違いない等と思うかも知れません。
それは実にこっけいな状況なのです。

そのような時、キリスト者はいつの間にか、キリスト御自身や御言葉
よりも、この世界に存在するリアル感に満ちた無数の物達の影響
によって引き起こされる私の感覚、雰囲気、環境を信じ、それを
追いかけ、遂にはそれらに振り回されるようになってしまうのです。
この状態は大いに危険です。

もしそうであれば、キリスト者が、幸福感とは逆のマイナス感覚
や逆境などの状況に四方八方取り囲まれる時、自分を見る影も無く
哀れなものと感じ、信仰さえなくなってしまったのかと
大いに誤解し落胆するのです。これがよく私達が経験する
キリスト者のアップダウンです。

真に信じるとは、物質から来るリアル感、常に変化する様々な
状況などに影響されることなく、不動の「見えないもの」
神の真理に目を注ぐことです。
信仰とは3K、自分の感覚、環境、経験が総て入っているガラスコップの
「背後に」立ち「その小さなコップの中の3Kの総て、笑いと嵐を」を
静かに見おろすのです。
そして自身は何の上に立つのか。
それはただ神の真実と真理、動くことの無い神のことばの上にです。

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