2009年3月19日木曜日

直覚と意志

基本的なこと:
①ただ御ことばと私の霊の中の直覚において、
②聖霊の啓示によって神の意志(みこころ)を知り、
③それを私の思いで理解、確認し、
④私の意志を行使して(サタンの意志を拒絶し)
その神の意志を選択し受け入れ、
⑤聖霊への全き依存の中で、神と同労する。
以上が基本です。


しかし、以上の基本的なことには2つの大きな前提があります。

旧創造を一掃する為に、死に向かい、死を受け入れ、そして新創造導入
の為に、復活し、御座につかれたキリストの経験を真に認識し、
それらのキリストの経験をキリストとの一つの中で
自分のものとして日々経験すること。(これはおもに積極面です)

キリストにおいて既に達成されているが故に、それを根拠に
私の罪、肉、この世、魂の命(機能ではない)の除去を
私において達成すること。キリストの死と言う霊的世界における
決定的分離を時空の中のわが身に適用すること。(これは消極面です)


基本①②の説明:
神が、私たちの霊の一つの機能である直覚以外の場所で、直接に神や
神の意志(細かなその人に関わる神の御こころを含め)を人に知ら
しめることはあり得ません。このことの認識が無いとキリスト者は
たやすく、人の霊以外の場所(魂と体)に働きかける敵から来る
感覚を神からのものであると誤解します。これは大きな悲劇です。

例えば、キリスト者が最高度に評価する、不思議で
超自然的な感覚:「燃えるような愛」「臨在感覚」「第三の天の感覚」
「聖霊からの火のような感覚」、時には体のしびれや、目によって
不思議なものを見る等、敵が送る種々の超自然的感覚がそれです。
極端な場合、例えばある人達は「彼らの」目によって「イエス」の姿を
見たと公言します。これはさまざまな宗教や修行に見られるいわゆる
「深み」です。これらの魂や体の感覚はある程度、外側から人の霊に
さえ(聖霊にではなく)影響を与えるので、彼らはそこに「ある深さ」
を感じ「これは神が与えた神からの感覚である」と誤解するのです。
そのようにして彼らは確実に彼らの世界の中で、
ある種の崇拝と座が与えられるのです。

しかしながら、私達は、これらの殆どは、特にキリスト者をターゲット
にした神の敵のかく乱や真理からおびき出す巧妙な「エサ」であること
を知るべきです。私達はそのエサに決して食いついてはなりません。
堕落した天使長から来る虚偽と光の偽装の深さは殆ど無限であり、
自らの破滅の運命を予知する彼の究極的な狙いは
「彼と共なる死」「滅亡への道ずれ」なのです。

キリスト者は、特に今後の世界において、神の敵が多くの不思議、
奇跡を行うことを忘れてはなりません。それは遂には全世界の
神を憎む人々が、こぞって「物を言う偶像」を礼拝するようになる
と言うクライマックスに確実に至るでしょう。ですから今、敵は彼が
憎むキリスト者達の魂と体に対してさえ、超自然的な業を少しずつ
始めている、としても何の不思議もありません。もしかして敵は
「不思議崇拝」の世界的な潮流を先ずはキリスト教徒から
始めたいのかも知れません。

私達は知るべきです、神が評価するのはただ信仰であり、信仰は
感情や思いとは直接には関わりがない、ということを。(思いや
感情で信じるのではない、と言う意味)信仰は人が、自分の感覚、環境
経験(3K)以上に神に信頼を置くが故に、ただ神のことばを
「選択する」と言う冷静な意志の中にこそ存在するのです。
それこそが、神が喜ばれるものです。

当然、キリスト者が真に信じた後で、神がよき感覚を与えられる
可能性は十分あり得ます。しかし「神から来る幸せな感覚」にさえ、
過大な評価を与えることは危険です。決して「天的多幸感覚の獲得や
不思議体験」そのものがキリスト者の切望であってはならないのです。
私達の切望はひとえに真理そのものと、それが私の霊に啓示される
ことであるべきであり、その後に訪れるものがどんなに素晴らしい
ものであったとしても、それらを決して抱きしめてはならないのです。

「リアリティ」の獲得も感覚や思いによってではありません。それは
キリストとの結合に対する信仰によるのです。なぜならキリストこそ
そのリアリティそのものであり、信仰とは結合であるからです。

③の説明:
この時、私達は決して受身的な態度に陥らず、状況を判断し、冷静に
聖霊によって新しくされた「思いを用いる」必要があります。ここに
おいて、直覚で得られた真の知識を思いの中での理解によって
確認するのです。しかしそれは先ず霊において知るということ
(啓示)がなければ、何の意味もないことです。だから
キリスト者は総てにもまして神からの啓示を求め、待つべきです。
しかしその聖霊による啓示は、必ず唯あなたの「霊の中の直覚をとおして
のみ」であることを正確にしゅん別する必要があるのです。

④の説明:
宇宙には3つの意志があります。神の意志、サタンの意志、人の意志です。
この3者は完全に独立しています。ですから人は自分の意志を固め、
サタンの意志を拒絶し、神の意志を選択する必要があります。これは
完全に人の役割です。神が人に代わって神の意志を選択してあげること等
絶対にあり得ません。「神が人に自由意志を与えた」これは神の大原則
であり、今更、神でさえそれを覆すことは不可能です。神の願いは、
(あの時のエバのようにふにゃふにゃせずに)人が自らしっかりと立ち、
神と神のことばを自由意志の中で選択することなのです。

今日この点の誤解は広く行き渡っており、キリスト者は何もせず、ただ
「来るもの」を受け入れるのが素晴らしい信仰であると考えます。元より
神は人の自由意志を尊重して動きません。所が人は何もせず、時には
意識的に自分の思いをさえ振り払って、唯何かを待ちます。従ってここに
「何でも」受け入れてしまうと言う危険な状況が発生するのです。

そんな時に何が起こるのでしょうか。「第三の意志」が待ってました
とばかりに巧妙なだましの手口で行動するのです。その時、敵の対象は
人の体の機能と感覚、そして人の感情と思いであり、終局的には
人の意志でさえ麻痺させてしまいます。程度の差こそあれ、今日
このタイプのキリスト者は何と多いことでしょう。それは人の最も大切な
機能・自分の意志を神の御前で明確に働かせなかった結果なのです。

これは霊的世界の法則に従った現象です。即ちある原因があれば必ず
その結果が伴うと言うことです。だから私達は決して、夏の家畜小屋のハエ
のようにこの地上におびただしく実在する所の、極めて知的で超自然的能力
を持つ、目に見えない人のような生物・悪霊達が、私達の魂と体に付着する
原因を作ってはなりません。(悪霊共の意志はとても明確)そしてその原因を
排除できるのは、あなたの思いと感情に働きかける敵、に対する断固とした
拒絶と神のことばのみを受け入れるしっかりとした意志なのです。

⑤の説明:
「自分の十字架を負い、魂の命を失うべし」と言うイエスのことばが
ここにおける関連です。魂の「物質的」エネルギー・命
(魂の個性や機能ではなく)を十字架に渡すと言う日々の私の作業があって
初めて、聖霊の命と性質が、人の魂の機能を通して、神の意志を
この地上に表現することが可能となるのです。

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