2009年3月15日日曜日

キリスト者が集まる

少数のキリスト者の自然な集まり、それこそがエクレシア(教会)
の前線であり、神の働きの基点です。「その小さな2、3人」
からのみ、神は事を始められるのです。従って神の働きの上で
少数のキリスト者の集まりほど大切なものはありません。

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キリスト者のあつまりは実に単純なものです。(複雑なものには要注意)
先ず、集まる理由はただ「会いたいから」です。私達はただ兄弟姉妹に
会いたいから万難を排して会いに行くのです。更に言葉を加えるとする
ならば、それは「私の中のキリストが他のキリスト者の中のキリストに
触れたいから」なのでであり、そこには、キリストの人への愛の力が
作用しているから、と言う事になるのでしょう。私達はただ
その理由の故に「どうしようもなく」集まってしまうのです。
そこに存在するとても自然でしかも不思議なある種の吸引力、
この「単純な衝動」がキリスト者が
「集まってしまう」と言う生命現象の説明です。

しかし気の毒なことに今日多くのキリスト者達はあまりに複雑にされて
いるのです。本当は集まりたくない場合でも、他のいろいろな理由の為に
集まっています。従ってそこには、本来エクレシアにあってはならない
複雑怪奇で不自然なものがいつの間にか積もり積もってしまうのです。


次に「他のキリスト者の中のキリスト」への愛は聖霊の中にあって必ず
私をしてキリストの十字架へと導きます。これはある深い法則です。それ故、
キリスト者の集まりの為の重要な条件は十字架と言うことになります。
キリスト者が集まる場所の入り口は実のところ死・十字架で構成されている
のです。ですから、なんびとも十字架を経過することなしに、他のキリスト者
に出会うことは不可能です。本当の所、その前に、キリスト者の上には
四六時中絶えずキリストの死が働いているのです。(Ⅱコリント4の11:
「私達 生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。」)
この意味は、キリスト者は絶えず(日常的に)キリストの死の中に留まって
いなければならない、それは人に対するとても厳然たる基本的な神の意図
である、と言うことです。ですから、他のキリスト者にあなたが出会う時、
そこには最早「あなた」は存在することが出来ません。遅くとも集会所の
入り口であなたは「殺され」なけばなりません。ですからもしもそこで、
あなたが真に「呪いの木」に釘付けられることを神に許すならば、
集会の場所に座っているあなたはキリストと共に復活した「別のあなた」
でしょう。その新しいあなた・キリストとの一つの中で復活したあなた
だけが、神とエクレシアにとって初めて益となり得るのです。

そうでなければ、あなたは十字架に付けられることを拒んだ古いアダムの
血肉をエクレシアに持ち込むことになり、エクレシアに変質をもたらして
しまうのは避けられません。それこそが極めて大きな問題です。
今日のキリスト教の姿が「神の外観をまとい、十字架を拒んだ古い人類の
一切を現している」のは無理からぬことです。それは人々が
「十字架とは何であるかを実際には殆ど知らない」と言う深刻な事実を
如実に示していると言わざるを得ません。十字架の認識とその実際的な
経験の欠如、それが今日見る一切の混乱の唯一の理由であると
極言できるのです。


ですから、他のキリスト者と集まる時、私たちに何の意図もあるはずが
ありませんし、誰かが他の人を「仕切る」ことなどあり得ません。何故なら
一人一人の意図は、遅くも集会所の入り口で総て「神の呪いの故に」木に
釘付けられてしまうからです。
ですから、集まりの中、私達が感じることはただ「復活のキリストよ、
これはあなたの教会・エクレシアです。少なくもこの2、3人は
その一部です。ですから、この集まりの一切は総てあなたのものです。
そうです、この集まりの総責任者はただあなた・キリストです。ですから、
この集まりの始めから終わりまで、一切をあなたが取り仕切って下さい」
なのです。もしも真に「その祈りの心」が私たちにあるならば、初めて
聖霊は「キリストの意図」を集会に現されることが可能となるのです。
その時こそ、人の汗と肉に全く無縁な復活のキリストの意図がその小さな
集まりの中で、生ける言葉として一人一人に明確に、タイムリーに
表れされることが期待できるのです。

ただ今生きている復活のキリスト御自身によって、今日のための
「キリストの意図」を集まりの中で各人に明瞭に表現していただく、
これのみが私たちが集まる目当てであります。

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

肉すなわち罪から出てくる罪の力に操られた古い人、及び肉のもう一つの成分である自己(魂)が主役なのか、それとも聖霊を通して霊の内に生きるキリストが主役なのか、それによってエクレシアの様相はまったく変わります。何とこの道は狭き道なのでしょう。主の再臨を待ち望みます。