当時 キリスト者達をおそった破壊的環境は 相当部分、サウロの
「ナザレ人一派」に対する激しい敵意によってもたらされた
と言っても過言ではないでしょう。
しかし賛美します。以下のいくつかの聖句の中にさえ、既に破壊現象
から萌芽する復活現象を見るのです。
・「人々はステパノを石で打ち殺した。証人達は自分達の着物をサウロ
という青年の足元に置いた。」(使徒7の57)
・「サウロはステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの
教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤと
サマリやの緒地方に散らされた。・・サウロは教会を荒らし、家々に
入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。他方、散らされた
人達は「その言葉」を述べながら巡り歩いた。」(8の1~4)
・「ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は
フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行った・・・主の
御手が彼らと共にあったので、大勢の人が信じて主に立ち返った。」
(11の19、21)
さて、先先回に述べた エルサレム教会の中にあって キリスト者の中に
存在し始めたであろう「エルサレム的固定、安住」志向に対して、
何と神は たちまちの内に破壊的と言えるほどの環境を許されたのです。
しかしながら かように強制的な「脱エルサレム」をさせられた
キリスト者達に対するサウロの情け容赦のない破壊行動は
それでも止むことはなかったのです。
・「サウロは、なおも主の弟子達に対する脅かしと殺害の意に燃えて、
大祭司のところに行った・・それは「この道」の者であれば男でも女でも
見つけ次第 縛り上げ・・投獄するためであった。」
(9の1、2)
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