2009年9月26日土曜日

給食事件とステパノ事件(2)

給食事件の後 エルサレムにおいて、神のことばは益々成長
しました。(この事実をルカは僅か一つの節の中で述べています。)
しかしここにさえ一つの誘惑、問題があり得るのです。
それは 生来の人の魂が持つ繁栄、安定化、固定化への「根強い」
願望です。しかしながら、何故それらの願望が神のみこころではない
のでしょうか。キリスト者の繁栄、安定化、固定化を どうして神は
喜ばれないのでしょうか。

何故なら、それらは総てキリスト者をして この地に強く根を張る者、
黙示録の言う「この地に住む者」としてしまうからです。
十二使徒をいただき 多くの信者を有する中、役割分担の確立、
「人間への権威付け」等にともなう繁栄感は 彼らに もしかして
「この世の春」の到来のようなものを感じさせたかも知れません。


しかし、エクレシアはそうであってはならない筈です。それは常に
「小さなからしだね」という「来年」への希望さえ持つことのない
一年草の命に留まるべきです。

しかし、なんと言うことでしょう。神の敵はいつの間にか 神の御わざの
「かかと」に忍び寄り その一年草の野菜をいつの間にか 天に向かって
きつ立させ、空中の無数の生き物を宿らせる大きな木にまで、肥大変質
させようとしたのです。それは地上の人々の目にさえ直ちに
「これは天国」と見える 葉の生い茂る外観を有するでしょう。

しかし、私達はそうであってはなりません。地上に現れる
エクレシアにある天国は ただ澄んだ目によって捜さなければ
発見出来ない、純粋な隠された小さな命 「小さな群れ」であるべきです。

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