給食事件の後 エルサレムにおいて、神のことばは益々成長
しました。(この事実をルカは僅か一つの節の中で述べています。)
しかしここにさえ一つの誘惑、問題があり得るのです。
それは 生来の人の魂が持つ繁栄、安定化、固定化への「根強い」
願望です。しかしながら、何故それらの願望が神のみこころではない
のでしょうか。キリスト者の繁栄、安定化、固定化を どうして神は
喜ばれないのでしょうか。
何故なら、それらは総てキリスト者をして この地に強く根を張る者、
黙示録の言う「この地に住む者」としてしまうからです。
十二使徒をいただき 多くの信者を有する中、役割分担の確立、
「人間への権威付け」等にともなう繁栄感は 彼らに もしかして
「この世の春」の到来のようなものを感じさせたかも知れません。
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しかし、エクレシアはそうであってはならない筈です。それは常に
「小さなからしだね」という「来年」への希望さえ持つことのない
一年草の命に留まるべきです。
しかし、なんと言うことでしょう。神の敵はいつの間にか 神の御わざの
「かかと」に忍び寄り その一年草の野菜をいつの間にか 天に向かって
きつ立させ、空中の無数の生き物を宿らせる大きな木にまで、肥大変質
させようとしたのです。それは地上の人々の目にさえ直ちに
「これは天国」と見える 葉の生い茂る外観を有するでしょう。
しかし、私達はそうであってはなりません。地上に現れる
エクレシアにある天国は ただ澄んだ目によって捜さなければ
発見出来ない、純粋な隠された小さな命 「小さな群れ」であるべきです。
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