2009年9月22日火曜日

この交わり=エクレシア

コンスタントな聖書の通読は必要です。新約の場合、
今「使徒の働き」を読んでいます。


皆は心を一つにしてソロモンの廊にいた。他の人々は一人も「この交わり」
に加わろうとしなかった。(使徒5の12、13)

ここの「この交わり」を「エクレシア」という言葉に代えて そこに
はめ込んで見ても そんなに遜色がないことが分かります。ですから 多分
その当時、「エクレシアの実際的内容」は「この交わり」であった と言える
でしょう。更に「その交わり=エクレシア」という大胆な公式さえ可能かも
知れません。(当然、交わりはお付き合いやおしゃべりではありません)


さて、「その交わり」と「他の人々間の付き合い」の間には ある壁
のようなものが厳然として存在していたようです。その壁を含む内側は 
他ならぬ 今は目には見えない「その霊なるイエス御自身」でした。

その感知できない霊なるイエスを「低くされた心と信仰」によって
捕えた人々は、結果として何の無理もなく「自分もその交わりの中にいる」
と「感知できた」のです。しかし不思議なことに 他の人々は「彼らを尊敬
していた」にもかかわらず そこに名状しがたい ある違和感を覚えざるを
得ませんでした。

実際的レベルにおいて「その見えないエクレシアの範囲」こそ「聖なる領域」
であり、キリストのからだに他なりません。イエス御自身の中におられる
神だけが 唯一聖であられるからです。残念ながら、この範囲・境界ライン
について論述し尽くす完全な人の言葉を私は知りません

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