2007年6月25日月曜日

自己複製現象

昨夜 あるキリスト者から電話があり、その方の身近に起こっている
ある困った状況に関するアドバイスを求められた。
ところが 私にある唯一のものを さしあげる以外に 
私に何かあるわけではない。 

その唯一のものとは キリストの死と復活である。
真の命は 復活の中にある命であり 復活の命は どうしても
死を経過せざるを得ない。
しかし問題は 具体的に その死をどのように
わが身に適用するかであり 昨夜 その点に 私のアドバイスは集中した。

さて
この方 実はつい最近 埼玉県にあるご自宅を開き 
2,3人の他のキリスト者との交わりを 開始されたばかりである。
私達はこのことを喜ぶ。それは今 主の前に実に尊いことである。
この「2,3人の交わり」が これからの「主の動き」における
1つの重要な起点となるのではなかろうか と思われるからである。



しかし 起点が存在するだけでは 事は成就することはない。
次に 極めて重要で かつ難解に見える問題は 
そのごく普通のキリスト者に過ぎない2,3人による交わりが 
生物の自己複製現象の如くに もう一つの別の 
2,3人からなる交わりをどうやったら 自然に産み出し得るか 
と言うことである。

これは 今日のキリスト教の状況やキリスト者の常識を知る時、
全く困難なことのように見える。否 それは殆ど不可能に近いのだ。 

しかし 生物の世界に少し目を転じて見ると
この現象は 生物活動の基本であることが容易に分かる。
自己複製能力を失う時 その生物は絶滅するのだ。
しかし逆に言えば 命が正常でありさえすれば 当然の如くに 
その能力は あらゆる生き物達に 常に普通に存在する。
それは 生物の個体における複製においても 
また一細胞の増殖においても見られる基本的な生命現象である。
命とは 自己の複製、再現、増殖をせずにはおれない存在なのである。

ここで大切なことは その2,3人からなる命の1細胞が 
あるスーパーマンを中心に 他を取り込み
或いは痛めつけながら 肥大し、自己を誇示し 
強力に存在感を増して行くのではない と言うことである。
もしそうであるならば それはむしろ 悪性の病気なのであり、
遂には その生命体全体を 死に追いやることになる。
決して そうではないし また そうであってはならないのだ。

それでは どうであるべきなのか、 
その2,3人からなる 小さな交わりから 一人一人が 
キリストの死を わが身に適用することを 互いから具体的に
学び合い、日常生活の中で その死を実際に
わが身に適用するのである。

そうするときに  
復活の命の中の光が 彼らの普通の生活の中で 
その人の周囲にいる人々を引き付け照らし 真の自分を見させ 
命に触れさせ 更なる段階に至らしめるのである。
そのようにして 命の自己複製現象によって生まれた
2,3人を最小単位とする集まりと交わりが この地上の
いたる所に見られることになる、筈である。

真の命の増殖には デモンストレーションは不要である。
この命の増し加わりは 人々に隠され 秘められた方法で 
静かに進行する筈なのであり 日常的な人間生活を逸脱した所で 
ニギニギしく執り行われることはあり得無い。 

この現象が真に出現し 進行するとき 
その各面には計り知れない益がある。
そこには 幾多の驚くべき神の知恵が数限りなく隠されていることは
既に明白なのである。



しかし残念ながら 以上は いまだに 
私達の初歩的基本的なヴィジョン 或いは一提言に過ぎない。
現実に 真の命におけるこの自己複製現象が 
いかなる条件のもとに この地上に現れ得るのか、
そこには ここでは到底語り尽くせない
幾多の 重い課題が存在する事であろう。

しかし更に 大切なことは
この課題には 人の知恵から来る単なるハウツー的アプローチを 
やんわりと拒絶する何か を内在しているという深い事実がある
と言う点である。
もし私の誇大妄想でないとすれば
それは この最後の時代における キリスト者に対する 
神からの重い課題である故 であろうと私は思っている。

0 件のコメント: