2007年6月28日木曜日

家々 VS. シナゴーグ(会堂)

シナゴーグとは 固定と安定の「神を礼拝する」宗教、
家から家へ とは「動的な人の人間らしい生活の只中」のこと。

今イギリスのノーリッジで起こっていることは 多分 
聖霊による 反シナゴーグ的動きの一つの兆候なのであろう。
かつて家々の中に、つまり人間生活の只中に現れられたキリストは 
今この21世紀においても 
1点 一人のキリスト者の霊の中から キリスト者達の
いろいろな生活の中へ 伸縮自在に いろいろな表れ方を
されておられるようである、
家々で パブで ファミレスで、ストリートで。

人の命はライフ、生活もライフ、人生もライフ、みな同じライフである。
神は明らかに、とりすましたワンセットの 時間と場所が固定された
日曜礼拝などではなく 人の普通のライフが好きなのだ。
無制限な復活のキリストが
礼拝堂の中 日曜日の10時半からの1時間のみに
限定されることなど決して無いのである。
(今ノーリッジでは敢えて日曜集会をやめているという)

かつて キリストが登場されたのは その殆どが 
人が人間らしく振舞っている場面であった。
サマリヤの女の人目をはばかる水汲みの場面
(あの場面、女は遂にキリストをそこに見出し、実に固定的礼拝者から 
動的な真の礼拝者へと導かれたのであった!) 
人が病に苦しむ場面、男達の仕事の場面と食事の場面(復活後でさえも) 
カナでの酒宴の場面、少女の死の場面にさえ。
そんな人間的場面こそが 
神が人に語られる場面、人に接触される場面なのだ。
キリストが儀礼的に正装をして現れ、
人の礼拝を受けられたなどと言う場面は皆無である。

福音書を見ると 明確にある時を契機として 
キリストVS シナゴークと言う図式が先鋭化して行き
その結果 キリストを真に愛する者 はシナゴークから追放され
そして キリストご自身は「シナゴーグの真髄」によって 
遂に惨殺されることになる。

これこそが キリストとキリスト者達の 真の姿であり運命である。
今私達は 今日のシナゴーグと家々との 
どちらを選ぼうとしているのであろうか。

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