2007年4月13日金曜日

  『家から家へ』雑感(1)

*家における集まりは 最低2人いれば可能である。
 「2人でも3人でも、私の名において集まる所には
 私もその中にいる。」(マタイ18‐20)
 これはイエスの明確な教会についての言及である。

*したがって家は教会の基本単位である。
 (しかし家は誰も固定し得ない生き物でもある)

*共に集う原則は唯一つ『父から同じ命をいただいた兄弟姉妹どうし
 家族どうしだから自然に集う』  それだけである。
  同じ家族の兄弟であれば それまでの互いの背景、経歴 
 それまでの宗教的人間的しがらみの一切、それらが仮に 
 問題となるように見えたとしても それが 兄弟を敬遠したり
 切り捨ててもよいと言う理由にはならない。

*人間生活を尊重し、無理をせず、自然に。
 (この中には多くの具体的な項目が含まれる。それは順次・・)

*誰も家々を私物化したり、まとめて大きくしようとしてはならない。
 その意識は必ず 人の誉れに繋がる「あの塔の建築」を
 もたらすことになる。 

*それとは逆に 家は横へと命の枝を伸ばす。つまり家が家を生み、
 家から家へと 四方にどこまでも成長する、
   あの葡萄の木のごとくに。

*今現在 神の敵はこの地を不法占拠している。しかし 
 まことの葡萄の木が神の命によって その枝の『ひげ』を伸ばし
 そして実を結ぶ時 正にその分だけ 神の御国が
 「死と虚偽を力とする暗闇の王国」を侵害し 命と光の支配の領土を
 拡大する。
  この人間生活の中における 神の命の拡大とその命による
 愛の支配こそが、そしてそれのみが キリストの再臨を促すのである。

2 件のコメント:

emi さんのコメント...

この時代、このようなブログもまた、「家」のような役割を果たしている気がしています。
発信する人や訪れる人が、毎日の生活の中で真理への信仰の活用と十字架の死を帯びていれば、自ずとこのような場でも、或いはメールを介しても「電気のビリビリ」が発生し、主の臨在に気付きます。

もちろん、実際に会う方が良いけれど、そのような土台があれば、リラックスして自然なまま交われる場であることは確か。
実際、ここでとても祝福をいただいており、主に感謝しています。

「この人間生活の中における 神の命の拡大とその命による 愛の支配こそが、そしてそれのみが キリストの再臨を促すのである。」

これ、どきどきですね。

Mr.Sugar さんのコメント...

有難う。
なるほどネ。電話、メール、ブログは『家における 顔と顔を会わせた交わり』を補う手段となるのは明白です。
先日もある姉妹が 感動があると 矢も盾もたまらず電話をする と言ってました。こ
ういう態度はとてもよいと思いました。