2007年4月12日木曜日

   家々で

 新約聖書が啓示する当時の教会生活 集会生活の形態は
どんなものであったのだろうか。
所が それはこうだと断定するには 聖書の記述はあまりに
断片的過ぎるのである。
にもかかわらず 聖書が 明確に私達に指し示していることの一つは 
『当時の集まりは 家々で であった』と言うことの様である。

 教会初期の頃は 宮においても集まったが それは長くは続かなかった。
このことには神の介入があったのではないか と私は思っている。
(後日 宮は壊滅的な破壊を受けてしまった。)
 また、ペテロのメッセージで3千人ほどが『弟子に加えられた』とあるが、
ローマの強力な支配下にあった当時のエルサレムの状況を思えば 
3千人が一同に会して集会をしたとは考えにくい。   
 更に新約聖書のどこにも 彼らの所有する集会所(礼拝堂等)の
存在を匂わせるような箇所は無いようである。

 少なくも「初期以後」平常の彼らの集会生活は明らかに
家々が中心であった。    
 もしもそうであるならば この事実によって 聖書がそして神が 
教会生活に関して 私達に対し極めて重大なメッセージを送っておられる
筈である と心するべきではないのだろうか。 

 この聖書の啓示から引き出し得る キリスト者のあるべき姿についての
示唆には相当意味深いものがある。
 例えば、キリスト者にデモンストレーションは似つかわしくないこと、
 キリスト者は「箱もの」によって 
この世に固定化されるべきではないこと、また 
 集まりは非日常的ではなく むしろ人間的で 自然なものであり 
日常生活の延長線上にあるべきことなどである。

 神は何故か 極めて人を重んじておられる。故に当然
その『人間の生活こそ』が神が最も尊重されるものに違いない。
従って 家々でのキリスト者の日常生活と その延長線上での
『人間らしい自然な集まり』 そこにこそ 
今日でさえ 神の厚い御心が注がれている と言えないであろうか。 

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