私たちの心の願いは ただひたすら
復活のキリストに自由を与えることです。
その為に:
一 先ずキリストを経験する日常生活があって 次に初めて
集まりがある と知らなければなりません。
二 「キリスト経験」とは
①「キリストを信じることの効き目」 と
②「キリストの死の効き目」を わが身にいただくこと の
具体的な実行をすることです。
実行をする とは 「信じる、いただく」と言う安息に入るための
実行を日々自分の意志で 事あるごとに何度でも行なうことです。
三 キリスト経験があれば ごく自然に「キリスト現象」が伴うはずです。
キリスト現象とは 「不思議、人を照らし自分の真の姿を見させる光、
人を引き付ける力」等としてのキリストが次第に
あなたとあなたの周囲に現れ、いろいろな人の上に キリストご自身の
影響が及ぶようになることです。
しかしあなたが その栄光を受けることはありません。
四 信じることの実行とは 私が「今日 天地におられるキリスト、
奥義的生命体、あの天地のブドウの樹」と既に一つとされているが故に
私とキリストはあらゆることで同じ運命を共有することを信じ その結果
その驚くべき天的樹の樹液の供給と
ブドウの樹の中を流れる豊かな交流(交わり)を楽しむことです。
五 「キリストの死の効き目をいただくことの実行」とは 日常生活で
①私の一つ一つの具体的な罪に キリストの御血を注いでいただき、
神の目から見て 多くの罪から私が全く清められたが故に
私自身の良心も完全に自由にされることです。
②私の「罪深い性質」に対して キリストの中で 既に
私は死んでいることを信じ 罪からの解放の事実を見
その結果 実際的に罪深い性質からの自由をさえ
発見して行くことです。
*この①と②の為のキリストの御業は 既に完成されて
しまっているのです。
つまり それは私達が今更どうにも出来ない過去の「既成事実」
なので 私が今じたばたしたからとて絶対 変化するはずがなく
私達はその事実を あり難く信じ頂戴し そのキリストの
勝利を 実際場面に応用して 十分効果的であることを
楽しむだけでよいのです。
* * *
③の問題: これは 私達の魂の命の上にいただくべき死の効力
についてであり
日々私達が負うべき主観的十字架と
言われる死の適用についてです。
A.私達の魂を弱くし 破れ目を作る死
それは
神が許されて あなたに与えられる「困難な死の環境」
でさえも あなたが キリストの御手からそれを受け取り
その辛い環境の中で あなたの魂の命に
キリストの「死なせる効き目」を及ぼしてもらうことです。
1.もしもあなたが魂の命の上に 真に死の効き目をいただく
ことが出来るならば その結果 その後一時的にせよ
復活のキリスト現象が出現します。たとえあなた自身は
その現象に気付くことが無いとしても それはキリストの
御からだのどこかに必ず 命を供給するのです。
そしてキリスト者が更に深く進ませられると
2. 今はまだ 本能的に「これぐらいのことなら自分の力でも
やって行ける」とつい反応してしまうあなたの魂の命が
神の前での多くの失敗と 面目なく恥ずかしい沢山の経験によって
ようやく徐々に弱くされ、魂の中に 少しずつ「破れ目」を
作っていただくことになります。
あなたに この「破れ目」が生じて初めて
キリストをして あなたの霊の中から その破れ目の分だけ
恒常的にも あなたから流れ出ていただくことが
出来るようになるのです。
③は ①②とは全く異なり 私自身が日々主観的に
キリストの十字架の死の効き目を まるで薬を塗ってもらうように
私の魂に直接適用してもらう事です。
B. 私達の魂の命
この過程は決して 短期間では終わらないでしょう。
それだけ 私達の魂の命は 『神に依存しなくとも自分の力で
神と人の為に 何かよいことを 行なって行けるだろう』と
何となく習慣的に そして頑固に感じているのです。
神は私達に 実は「私が生きることの総て100%」を
ご自身の霊の命にのみ 頼らせたいのです。これが正に
私達の思いを超えた神の本心であり 神が私達に譲歩してくれない
集中点なのです。
これ故に 私達はいろいろな問題に直面させられ 遂には
自分の意志で 日々自分の魂に 死の効き目を適用していただくように
させられるのです。
そのようにさせられる人は真に幸いなのです。
C. 私の心はどこにあるか
究極的に 神が私において求められるものとは一体 何でしょうか。
それはただ キリストご自身のみを追い求める私の心、 こころね
そして キリストのみを真っ直ぐ見つめる、ハトのような
「純粋な目」に他なりません。
もしもそれが無ければ キリストの心が私において
真に満足されたとは言えないでしょう。
いまだに 神ご自身以外に私が保持する ある貴重なもの
本能的に つい掴みに行ってしまう ただ一つのもの
心のどこかで どうしても執着してしまう何か、
或いは生涯私が 愛を注ぎ つちかい 築き上げて来た
「神のための」何かでさえ
それが仮に 心のある部分であったとしても
私の心が そのものに捕らえている とするならば
キリストは私を完全に獲得された と言うことは出来ません。
神の子がこの世に「人として」来られ ひたすら死に向かって
歩みを進め、ご自身の総て、その命でさえも砕いてしまわれたのは
ただ「人の総ての集約点なるこころ」を獲得するためであったのです。
神は愛、神と人との物語は愛、極限的な愛のかたち!
先ず 彼が惜しげもなく与えつくされた私への愛の故に、
そして 比類なきキリストの価値そのものの故に
私の心を 主の足元に置き 私の総ての貴重なものさえも
今 この時代において キリストご自身の上に注ぎ尽すこと、
それのみを神は欲しておられるのです。
キリストの十字架における死の効力が 最終的に私の上で
働かなければならないのは 実にこの点においてなのです。
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