(1)ノウハウでは役に立たない
もしも これからの時代 人々の心の中に
① 神を求める真の飢え渇きが生じ それによって人々が
② 『信仰』と『キリストの死をいただくこと』の絶大なる効き目を
知り、体験することが 実現して行くのでなければ
たとえ 例えば『家から家』の理論やノウハウが確立し、それが
いくら聖書的であると力説し、人々を説得することに成功したとしても
全く何の役にも立たないし、総ては無駄なのである。
(2)最も大切な問題
さてここで、②は①に 完全に依存していることは明かである。故に
『どうすれば、人々の中に 神を求める真の飢え渇きが生ずるのか』が
総ての問題の土台をなしている ことが分かる。
所が 考察がここまで到達してしまうと 私達は巨大な壁を
目の前にしているような気がするのではなかろうか。
『私達がどうすれば 人々は真剣に神を求めるようになるのか』
知性 或いは感情に訴えた良い話をたくさん聞かせることなのか。
それは否である。日本全国の 無数の日曜礼拝説教の存在が
その見事なまでの無効性を既に十分証明しているではないか。
それにしても 基本的に この問題の真の解答を
人の中に捜すこと自体 愚かなことなのではないのだろうか。
(3)福音の目的 - 唯キリストの価値の故に
しかし、かつて(二十世紀前半)
とても解けそうにもないこの問題を前に ある一人の若きキリスト者が
次のように断言したのである。
『人々の飢え渇きは 人によって 造られるべきものである』と。
この兄弟の後半生の多くを占めた
人として極みに至るまで圧迫され制限された生活は
正に『そのこと』の為に 神によって用意されたものであった。
それは 彼の霊性に優れた多くのメッセージでさえない。
地に深く埋められてしまったかのような、
彼が神の手から受け取った生き方そのものに隠された
到底 語りつくせぬ「あるもの」こそが
キリストの再臨のその日まで 敢えて言うが 「決して多くはない」
人々の心に 神に対する極めて深い 真の飢え渇きを
日々生じ続けるであろうことは明白である。
私達は正に「そのような時代」に
キリスト者として 今ここに置かせられているのである。
* * *
『われ今 汝らのために受くる苦しみを喜び、又キリストの体なる教会の為
わが身をもてキリストの患難の欠けたるを補う。』 コロサイ 1‐24
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