2007年4月14日土曜日

   あるチャレンジ

 (1)ノウハウでは役に立たない

 もしも これからの時代 人々の心の中に 
① 神を求める真の飢え渇きが生じ    それによって人々が
② 『信仰』と『キリストの死をいただくこと』の絶大なる効き目を
 知り、体験することが   実現して行くのでなければ

 たとえ 例えば『家から家』の理論やノウハウが確立し、それが
いくら聖書的であると力説し、人々を説得することに成功したとしても 
全く何の役にも立たないし、総ては無駄なのである。
   
 (2)最も大切な問題
 
 さてここで、②は①に 完全に依存していることは明かである。故に
『どうすれば、人々の中に 神を求める真の飢え渇きが生ずるのか』が 
総ての問題の土台をなしている ことが分かる。
 
 所が 考察がここまで到達してしまうと 私達は巨大な壁を
目の前にしているような気がするのではなかろうか。

 『私達がどうすれば 人々は真剣に神を求めるようになるのか』
 知性 或いは感情に訴えた良い話をたくさん聞かせることなのか。
それは否である。日本全国の 無数の日曜礼拝説教の存在が 
その見事なまでの無効性を既に十分証明しているではないか。
 
 それにしても 基本的に この問題の真の解答を 
人の中に捜すこと自体 愚かなことなのではないのだろうか。
  
 (3)福音の目的 - 唯キリストの価値の故に
 
 しかし、かつて(二十世紀前半)
とても解けそうにもないこの問題を前に ある一人の若きキリスト者が
次のように断言したのである。
『人々の飢え渇きは 人によって 造られるべきものである』と。
 
 この兄弟の後半生の多くを占めた 
人として極みに至るまで圧迫され制限された生活は 
正に『そのこと』の為に 神によって用意されたものであった。
 
 それは 彼の霊性に優れた多くのメッセージでさえない。
 地に深く埋められてしまったかのような、 
彼が神の手から受け取った生き方そのものに隠された
到底 語りつくせぬ「あるもの」こそが 
キリストの再臨のその日まで 敢えて言うが 「決して多くはない」
人々の心に 神に対する極めて深い 真の飢え渇きを 
日々生じ続けるであろうことは明白である。
  
   私達は正に「そのような時代」に
 キリスト者として 今ここに置かせられているのである。
    *          *           *

 『われ今 汝らのために受くる苦しみを喜び、又キリストの体なる教会の為
わが身をもてキリストの患難の欠けたるを補う。』 コロサイ 1‐24

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