2010年1月28日木曜日

主の懲らしめ

キリスト者とは 
安楽で快適な人生を送る人々である、とするのは明らかに間違いです。
むしろ私達は キリスト者であればこそ
苦難や悲しみを多く また深く受けると言うべきでしょう。

キリストの復活の証人として、
純度100パーセント「ただキリストの故に」死に至る苦難を受けるのは
明らかに第一級の人生であり、最高の死に方であることは 
聖書が一貫して見せているところです。

しかし、
そのような素晴らしい苦難を受ける特権と深い喜びに預かる人は
まれでしょう。多くの場合、私達は残念ながら、
自分の責任や過失の故に苦難を受けているのです。

キリスト者の苦難の原因を突き詰めて行くと、そこには極めて複雑で
奥深いものがあります。しかし大まかに言って それはおもに、
自分の罪、肉、この世、おのれ等から生じます。

しかし、とても感謝なことに神は 
キリスト者の自己責任から生ずる苦難でさえも 
「懲らしめ」や「取り扱い」or 「訓練」として
私達の永遠の益のために 大いに活用して下さるのです。
その基本的な神の動機は「神の愛」以外の何物でもありません。

それ故私達も 主の懲らしめを 事のほか重んずる必要があります。
それがたとえ「肉の刈り取り」であったとしても(大方そうでしょう)
神からのものとして受け入れる時に 神のためにさえ 
それらは計り知れない大きな意味と価値を生み出すのです。
これは 全聖書における極めて強い神の主張であることは明らかです。
(特にヘブル書12章)

2 件のコメント:

鷲のように翼を張って さんのコメント...

お久しぶりです。
最近の発見です。詩篇44と45のギャップはクリスチャン人生そのものだなーということです。まるで、キリストの愛の深さ広さを知るために、苦難や悲しみがあるとしか思えないのです。44篇の後半では「私たちときたら、神様におしたがいしているばかりに、常に死の恐怖にとらわれているのです。まるで屠殺場に引かれて行く羊みたいです。ああ、神様、目を覚ましてください!。・・・私たちは泥の中に転がっています。ああ、神様・・・」。たとえ、その苦しみの原因が自分の弱さや罪から来るものであったとしてもです。神様なしの私たち人間の本来の姿ですよね。ところが、です、45篇になると、「私の心は美しい思いであふれています。さあ、うるわしい詩を王にささげましょう」と来るわけです!基本的に神様の赦しなしには、すずめの一羽さえも地に落ちることがないのですから。「あなたには王という夫があり、あなたの美しさはことのほか愛でられています」。神様からのお声が届くとき、状況は全く変わらなくても、勇気百倍。天国が現実の只中に現れる、すばらしさを体験するのです。「神の御国はあなたがたの只中にあるのです」とは、こういうことなのでしょう!
反対に、困難、試練、訓練のないクリスチャン人生は、間の抜けた、なんの味わいもないものかも知れませんね。

Mr.Sugar さんのコメント...

鷲・・さん、
お元気そうなコメント、感謝です。

本当にしばらくでした。

実はどうしておられるのかな、と少し
案じていたところでした。
でもよかったです。

そのうち 顔と顔を合わせて 
お交わりをさせて頂きたいものです。