キリストは最後のアダムとして 受肉されました。
しかし最後のアダムとは一体何でしょう。
それは
イエスは「人類の総合計」であったと言うことです。
しかし、「受肉」は準備段階でした。
総ての開始は 彼の十字架です。
あの木に掛けられた「醜悪な者」が イエスだけであった、
ということは極めて不合理であり、あり得ないことです。
何故なら、真に神に呪われるべき存在は「私」であり
イエスではなかったからです。
しかし、
私が神に呪われ 私に死刑が執行された瞬間
そこにおられたのはイエスでした。所がその者は
イエスであるようですが実は私です。にも拘らず
やはり彼は事実イエスに違いないのです。
これこそが、
神が人類と一つになる稀有な手段でした、それは
「ラクダが針の穴を通る」よりもあり得ない方法です。
しかし、
ラクダをして針の穴を通らせしめたのは神でした。
何と言うことでしょう、神の子が
「人の罪において」人と一つになられたのです。
しかし、その瞬間こそがあのIN CHRIST の開始です。
IN CHRIST がなければ、新約は崩壊します。
それが総ての神の業の始まりです。
私達は日に 少なくとも10度は その事実
十字架、キリストの死、IN CHRIST、更に「私の終結」
に戻らなければなりません。
もしもそれがなかったなら、
キリスト者の生活というものは
根本的に存在し得ないことでしょう。
*IN CHRIST :
キリストにあって、主の中にある、主と一つ
2 件のコメント:
まさにin Christが鍵ですね。
血の贖いに被われているという以上に、霊的に一体であるということの奥義の深さを思い、恐れます。
頭と体が分かちがたい一人の人であるように、花婿と花嫁がふたりでひとつの幸せを分かち合うように、キリストと教会はひとつなのだと事実は信じがたいほど素晴らしいことです。
このことを地上において少しでもリアルに味わい喜ぶことこそが、キリスト者の証と呼ぶにふさわしいものだと感じています。
従ってキリスト教における人工的な教理や運動は極めて的はずれで虚しいものであると断じる他ありません。
「この事実は
信じがたいほど素晴らしいことです。」
仰せのこと 総てアーメンです。
永遠において、キリストにおいて
達成されたこの事実(真理)が
時空の至る所においても真実であることを
幼子の信仰によって立証、証明、再現する
ことこそが
エクレシアの使命であり、
「神の国の挽回」なのでしょう。
何故なら 今は時空の至るところが
神の敵の領土であるからです。
その挽回が今の時代における
神の栄光の輝きとなり、次の時代を
この地上に招来する基となる
のではないでしょうか。
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