2010年1月6日水曜日

神を信じる

・・にもかかわらず 
私たちは 
何がどうであろうと
どんなことが どう展開されようと、
神を信じることが出来ます。

これは不思議なことですが、
人に与えられた能力と知識の範囲は
極めて小さなものです。 
何故でしょう、それは
「人の能力と知識の矮小(わいしょう)さ」に
十分に取って代わる
「信じる」と言う真に稀有(けう)な能力が
人には賦与されているからです。

故に 
人に対する神の要求は
決して能力と知識にあるのではなく
神を信じることにあるのです。
「神を信じる」
これ以上に 人に可能な「よきこと」は他にありません。

私達の信じる神は 
その私達の全幅の信頼に応じ、
なお十二分に余りあるお方であることは
真に確かな事実です。

かの日、
私は その神の十全性を見る時
かつての私の不信仰に
恥じ入ることになるかも知れません。
何故なら、私は
そのとき「神が真に神である」ことを
アリアリとこの目で目撃することになるからです。



今日は電子ピアノ用の椅子を作ります。
ピアノ用の椅子の高さは微妙です。
一般に食卓用の椅子でも 低過ぎるようです。
調整可能なら 一番よいのですが、
それは私には無理でしょう。

外は今猛烈な風です。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

Sugarさん、こんにちは。

先月、sasukeさんと交わりにご一緒させて頂いた者です。
あのときの交わり以来、自分の中に言い知れない内面が変化していることを実感してます。本当に感謝です。

さて、信仰について・・。
信仰をもっと極めるという言い方はおかしいかもしれませんが、全幅の信頼を神に置きたいと願ってます。

福音書に何箇所か出てくるように、主イエスが”あなたの信仰によって癒された”といえるような信仰を持ちたいと願ってますが、これについてどのように思われますか?

Mr.Sugar さんのコメント...

yasuさん コメント感謝です。
信仰による癒し、これについては
語るべきことが多いと思います。
しかし今日ここでは 私の小さな証を述べるだけにします。
私は若いときから、相当ひどい喘息もちだったのですが
ある時、癒しについて主が私に何か語りかけられたようです。
その時以来(喘息の症状はしっかりと残っていたのですが)、
私の感覚は、もう喘息は癒されてしまった、と言うものでした。
ですから、そのことについて
それ以後私は 一度も疑いを抱くことはありませんでした。
なぜならその癒しは「もう終了した」
というものであり、
頑張って信じなければならない、
と言うものではなかったからです。
症状は そのときから確実に快方に向かい、相当期間の後
完全に喘息は消えてしまいました。

これらのことについて 顔と顔を合わせて
語り合えたら、と思います。
それでは、また。