2010年1月10日日曜日

現在、過去、未来・・

現在、過去、未来の他に 
もしも「永遠を現す時制」があれば何と便利でしょう。
しかし、残念ながらそれはありませんから、聖書においても
永遠を表現するには、やはり現在形、過去形、未来形のどれかを
使用せざるを得ません。

聖書は 一方では御言葉を通して
誰でもが容易に神に触れることが出来ますが、
方や極めて理解が困難な本であるとも言えます。
その理由の一つとして 特に新約聖書においては
どの記述が「時空の中の事実」なのか、どの言葉が「永遠性のもの」
なのかが 分かりにくいことが挙げられるでしょう。

未来形を用いていても それは永遠を表しているかも知れません。
過去形を用いていても それは永遠を表しているかも知れませんし、
現在形を用いていても それは永遠を表しているのかも知れません。
聖書は「時間の中の事実」と「永遠の事実」が様々な糸で織られた
織物のように記述されているのです。それは、普通の言い回し
の中に 永遠の記述が隠され ひそんでいる、とも言えるでしょう。

ですから私たちは
聖書を読む時、永遠性の事やものに格別の注意を払い、
その記述を見逃さないようにする必要があります。

何故なら、キリスト者に対して 神は
「時間の中の命と事実」よりも「永遠性の命と事実」を 
はるかに優先させて生きるようにと切望しておられるからです。
神が私たちに「永遠の命」を与えられたのは正にその理由によります。
命は実際に生きるためです。

そもそも私たちは「永遠の中に生まれた」のです。
しかし、それのみならず キリスト者とは今この瞬間でさえ、
神によって物質の命と死を果敢に退け
永遠の事実と命によって生きるようにと計画された
極めて特別な「生きもの」に違いないのです。

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