2010年2月7日日曜日

会いたい、集まりたい

これは私の感じですが、
皆が集まるのは 決してムリをしないことです。
とにかく「むりなく、自然に」がとても大切です。
私達は「会いたい、集まりたいから集まる」のです。
大きな集まりにむりな感じが出てきたらむしろ 
すぐにやめた方がよいでしょう。
そしてあらためて また考えればよいではありませんか。

イエスの再臨の前、
そんなふうにして世界のいろいろなところに 無理なく自然に
種々(しゅじゅ)多くの交わりが生まれてくるであろう、
と私は予想しております。

ある交わりだけは
特別に聖だから「絶対に守るべし」ということはありません。いったい
キリスト者の集まりは「守る」ものなのでしょうか?
それは非人間的でキツイです、それはイエスの心でしょうか。
私ははなはだ疑問です。

そういうのは、人を縛り(しばり)つける 
ユダヤ教やその他の宗教から来ているのだと私は思います。
イエスはそんな「権威(けんい)主義」を破棄(はき)されたのでは
ありませんか?もしも聖なる場所がこの世にあるとすれば、
それはただ一かしょ、キリストがおられるところ以外のどこにもありません。

A市でも
「月いち」で ノンビリやっております。
そんな感じで よいと思います。
しかし、とにかくその他 いろんなかたちで、さまざまに、自由に
交流すればよいのです。二人とか 三人とか、または
十人くらい、必要に応じてさらにより多くとか・・。
そして場所もさまざまでけっこうです。
(会うのがむずかしければ電話その他もあるでしょう。)
その中の一つが あなたとお姉さんとの交わりです。
これはカクになる交わりですから お二人にとって重要です。

言えることは 
キリスト者は決して「集まりをやめる」べきではないということです。
なぜなら あるキリスト者に「交わりをしたう心」が「もし一日でも」
なくなるならば それはその人の霊的不健康(ハッキリ言えば病気)が
現れていることになります。

もしも仮(かり)にその人が そのうめ合わせや罪ほろぼしのために、
定期的ないわゆる「礼拝」を「守る」のであれば
彼の病状(びょうじょう)は
そうとう深刻(しんこく)であると言えるでしょう。

4 件のコメント:

陽子 さんのコメント...

毎日のブログ楽しみに読んでいます
交わりの素晴らしさに喜びに
満たされています
無理なく集まれる時が主の導きだと
感謝して交わります
本当に主は素晴らしいお方です 

Mr.Sugar さんのコメント...

コメント感謝します。

本当に 主はすばらしいです。

陽子さんも いろんな交わりを

楽しんでください。

そうすれば、交わりが他の交わりを

生み出すでしょう。

陽子 さんのコメント...

お早うございます
昨日も姉妹五人で食事しながら
交わりました
神の家族の素晴らしさを痛感致しました
久しぶりの交わりでした
又復活して二ヶ月に一度交わる
約束しました
主にハレルヤです

Mr.Sugar さんのコメント...

さきに 書いたことが
もう実現したのですね!
すばらしいと思います。

そのように、
無理なく 自然に
やっていれば、主がつぎつぎと
働かれる
のではないでしょうか。
また教えてください。

いっしょの食事、いいですねー。
イエス様の時代も正に
そのようであったと思います。