お風呂の
水とお湯の混合栓(こんごうせん)からの漏水(ろうすい)
のため 混合栓は結局 全部取りかえ となってしましました。
新しいのをジョイフルホンダで買うことになるでしょう。
ヤレヤレですね。これは器具(きぐ)の「かっこよさ」を
優先(ゆうせん)してしまったツケかな?
メーカーはKVK という会社がいいとか・・
夕べはとても暖かく、ある時間は、ストーブをつけないで過ごす
ことができました。寒冷地(かんれいち)に住むものにとって
これは一つの春の感動です。
*
霊的には スリリングな毎日です。
私達はつい、自分を見て「ああ、この私の見える部分 特に
この私の肉体だけが私の総てである」と思い勝ちですが
明らかに新約聖書は はるかにそれ以上のことを言っています。
私とは「私が感じる私」だけではないのです。
すなわち「私と結合され、私と一つとなられたキリスト」を
私達に指し示すことは パウロの極(きわ)めて強い願いであり、私達は
どうしても「その大きな天地の神の生命体」を知る必要があるのです。
私達は今 その生命体、すなわち
「今日の天地におられる大きなキリスト」と神によって結合させられている
のであり、更に その天地のキリストが 何と私という存在(そんざい)
の本質であり、実体なのです!なぜなら、古き私は既(すで)に
十字架につけられ除外(じょがい)されているからです。
わたし達はよく自分を見てガッカリしがちですが、
もしもキリストの贖(あがな)いが 中途半端(はんぱ)なもの
でなかったならば この聖書の主張は信ぜざるを得ないはずです。
そして
神の全力投球されたあの贖い(あがない)の御業(みわざ)が
ホンの1%でも不完全であったなど
絶対にあり得ないことではありませんか。
パウロは言います:
「キリストの内にこそ、神の満ち満ちたご性質が、形をとって
宿っています。そして、あなた方は、キリストにあって
満ち満ちているのです。」(コロサイ2の9)
1 件のコメント:
Sugarさんの考えをお聞かせ下さい。
私達キリスト者は「罪人にして義人」でありますが、「もはや罪人ではなくキリストにあって義人」という考えは、誤まり、おかしな考えなのでしょうか?
私は同じ様に考えているのですが。
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