2010年2月24日水曜日

夕べはあたたかでした

お風呂の 
水とお湯の混合栓(こんごうせん)からの漏水(ろうすい)
のため 混合栓は結局 全部取りかえ となってしましました。
新しいのをジョイフルホンダで買うことになるでしょう。
ヤレヤレですね。これは器具(きぐ)の「かっこよさ」を
優先(ゆうせん)してしまったツケかな?
メーカーはKVK という会社がいいとか・・

夕べはとても暖かく、ある時間は、ストーブをつけないで過ごす
ことができました。寒冷地(かんれいち)に住むものにとって 
これは一つの春の感動です。


霊的には スリリングな毎日です。
私達はつい、自分を見て「ああ、この私の見える部分 特に 
この私の肉体だけが私の総てである」と思い勝ちですが
明らかに新約聖書は はるかにそれ以上のことを言っています。

私とは「私が感じる私」だけではないのです。
すなわち「私と結合され、私と一つとなられたキリスト」を
私達に指し示すことは パウロの極(きわ)めて強い願いであり、私達は
どうしても「その大きな天地の神の生命体」を知る必要があるのです。

私達は今 その生命体、すなわち
「今日の天地におられる大きなキリスト」と神によって結合させられている
のであり、更に その天地のキリストが 何と私という存在(そんざい)
の本質であり、実体なのです!なぜなら、古き私は既(すで)に
十字架につけられ除外(じょがい)されているからです。

わたし達はよく自分を見てガッカリしがちですが、
もしもキリストの贖(あがな)いが 中途半端(はんぱ)なもの
でなかったならば この聖書の主張は信ぜざるを得ないはずです。

そして
神の全力投球されたあの贖い(あがない)の御業(みわざ)が
ホンの1%でも不完全であったなど 
絶対にあり得ないことではありませんか。

パウロは言います:
「キリストの内にこそ、神の満ち満ちたご性質が、形をとって
宿っています。そして、あなた方は、キリストにあって
満ち満ちているのです。」(コロサイ2の9)

1 件のコメント:

エシュコル さんのコメント...

Sugarさんの考えをお聞かせ下さい。

私達キリスト者は「罪人にして義人」でありますが、「もはや罪人ではなくキリストにあって義人」という考えは、誤まり、おかしな考えなのでしょうか?
私は同じ様に考えているのですが。