2010年2月24日水曜日

罪人にして義人

Sugarさんの考えをお聞かせ下さい。
私達キリスト者は「罪人にして義人」でありますが、
「もはや罪人ではなくキリストにあって義人」という考えは、
誤まり、おかしな考えなのでしょうか?

A
「キリストにあって」は 私達は完全な義人です。
①キリストにあって、
②永遠の中では、
③キリストの贖(あがな)いが完全だったので神から見て、
すなわち、神の「法的な見地から」私達は完全に義人です。
B
しかし、キリストの外では、時空の中においては、肉体の中では、
私達は あい変わらず罪を犯しますのでやはり罪人です。時空の中、
すなわち この肉体の中にいる間 私たちが「罪なき完全」に到達
(とうたつ)することはあり得ないでしょう。これはあの90才?の
使徒ヨハネが彼の手紙の中で断言(だんげん)していることでもあります。

しかし、
1.日夜 Aの事実(神の真理・永遠で復活性の無限な事実)
を愛し、いつくしみ、尊重し、見つめ、信じ、宣言し
2.日々 自分を死に追いやる環境の中で キリストの十字架の死の
効果をわが身に受け続けることによって 真に死に続けるならば、
時空と肉体の中においてさえ、キリストの復活の命の力によって 
Aの実際(じっさい)がBの中にも、すなわち私達の肉体を通しても
徐々に現れてくることは十分可能です。

2はとても重要です。いくら理屈(りくつ)が言えても 
この2をおろそかにするならば 何の効果もないだけでなく、その人に
むしろ偽善(ぎぜん)や宗教性をもたらすだけでしょう。やはり実際的な
死を実生活の中で神の手から受け入れているかどうか がポイントです。

このAの世界とBの世界の間には 人には決して越(こ)えられない
大きな「フチ」のようなものがあります。
しかし感謝します。そのフチを越えることさえ キリストによるならば
可能です。そして私達には神によって 何とそのフチを越える「キリストの
信仰」が与えられているのです。キリストこそAとBを(すなわち天と地とを)
つなぐハシゴ(or その道、The Way)そのものです。 

そのキリストの信仰を私達が用いるとき、神の崇高(すうこう)な
真理Aは 時空の中の現実Bに対して ゆうゆうと勝利するのを 
私達はかたわらに立って 見ていることが出来るでしょう。


簡単に書きました。このテーマは相当の時間が必要です。
特に「永遠と時空の関係」は理解がとてもむずかしいです。しかし、
兄弟が自分の意志を用い、自ら進んで「霊的な実益(じつえき)のために」
神の門を強くたたき、神の御前で真剣に この問題と取り組まれるならば、
門は必ず開かれるでしょう。なぜなら あなたに対してそれが開かれる
ことは 神ご自身の強い願いでもあるからです。

1 件のコメント:

エシュコル さんのコメント...

やはり同じと考えても差し支えないんでしょうが、「一つ」と同じで二面性(?)みたいなものがあるんですね。
難しいテーマに有り難う御座います。