2011年7月23日土曜日

今、実家にいます

利根川のほとりも結構寒いですね。
さて、ケサある別のことを書こうとして書き始めたら、結局
次のようになってしまいました。これはままあることです。


「あまたのこの世の者、モノ、物、もの」の中で特に
一つか二つが、キリスト者をして強力に、この世に粘着
(ねんちゃく)させます・・」という意味のことを暗示
(あんじ)された直後、イエスは

「何はともあれ、
あなた方は、神の国を求めなさい。・・」
(ルカ12の31)と言われました。
だからキリスト者は
「何はともあれ」日々神の国を求めなければなりません。

「者、モノ、物、もの」の粘着力は
相当なものであり、実はキリスト者を苦しめます。
(一見それを楽しんでいるように見え、
また見せてはいますが、そこには欲望、愛欲による
「縛(しば)られ」があり
「真の自由」がないので分かります。※

ここでキリスト者はよく
「それを捨てることなど私には出来ない、
神が私に代わってして下さらないと・・」と言って
退(しりぞ)き、再び世に向かうのです。
その言葉自体はナンだか霊的に聞こえ、他人には奇妙な
説得力を持ちますが、それは霊的ではなく単に
怠惰(たいだ)から来る神に対するツブヤキです。

このような、いつまでもグズグズした弁解(べんかい)や
「さきのばし」を神が正当化されることはありません。
このたぐいの、神に対する「霊的姿勢やスタンス」についての
警告(けいこく)は聖書に多いのです。

イエスはハッキリと
神の国を「求めなさい」といわれたのであり、それは
「明確な命令」です。ですから、少なくともキリスト者には
その罪を憎み、主を正視(せいし)し「おことばですから」と
自分の足でシッカリと立ち上がる意志が要求されるのです。
聖書の中ではこの実例もしばしば見られます。

ふしぎですが、
信仰は「正にその時を」基点(きてん)として、生きて働き始め、
その後も、神の一歩一歩の導きが、あなたの一歩一歩の意志の
応答に伴(とも)なって、初めて現実のものとなる、という
現象(それは神の力)を、あなたは見ることが出来るのです。
これは間違いなく霊的な経験です。


神の国とは、
実際的には霊的な「支配」です。それはまず
「人々が、一人の人、イエスキリストにより(総てのものを)
いのちにあって支配する」現象において現れます。
(ローマ5の17)

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