2011年7月25日月曜日

利根川の土手

利根川のどて(堤防)は巨大です。
もしもこの川が氾濫(はんらん)したら
その被害はそうとうなものでしょう。
早朝、
その土手の上をユックリと歩くのが好きです。


「小さな群れよ、恐れることはありません。
あなた方の父なる神は、喜んであなた方に
御国をお与えになるからです。」
(ルカ12の32)

私たちキリスト者はよく
「自分たちのグループ」が偉大になることを夢に見ます。
しかしその願いの本音が「私達は大きい」と誇りたい
所にあるとするならば
そのような発想の源はどこにあるのでしょうか。

実際、永遠において
「エクレシア(教会の原語)ほどに
高く偉大なものはありません。」
しかし神は
今時間の中に存在するエクレシアの中にいる人々に
「私たちは大きくてスゴイ」という感覚を
与えたいとは決して思われません。

神がキリスト者をして
「普通の家々で集まるように」意図されたことには、
深い神の知恵が隠されております。
私達はこの世において
「よるべの無い小さな群れ」に過ぎない、
という感覚はむしろ正常です。

聖書は
「小さな群れ」と正反対である大いなる宗教を
見せております。そこには、人間が大好きな
「グレート」という言葉が何度も現れます。

彼女(大バビロン)は心の中で「私は女王の座に
着いている者であり、やもめではないから、
悲しみを知らない」と言う。(黙示録18の7)


ここで言う宗教とは
「神のもの(金と宝石と真珠)を飾りとした(利用した)
自分のための業」のことです。(黙示録17の4)

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