2008年7月29日火曜日

礼拝と訳された原語について(2)

「礼拝と訳されたギリシャ語」の検証を偶然というべきか、ドクターK氏
が試みておられたのにはビックリです。 主に感謝します。
1.
ピリピ3の3「神の御霊によって礼拝をし」(新改訳)と言う訳について
K氏曰く:ここは単純に「神の霊に仕える」という訳出で良いはずです。
ダービーの訳もウエブスターの訳も「礼拝し」となっているが、
(どうして「礼拝し」と言う訳にしたのか)よく分かりません。
2.
使徒行伝13の2「彼らが主に礼拝をしていると」(新改訳)
K氏の試み:「彼らが主に公然と仕えていると」「彼らは人目を
はばからずに主に仕えていた、或いはお世話をしていた」
ということになります。
3.
へブル10の11「また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、
同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることが
できません。」(新改訳)
K氏:この訳はその通りではないでしょうか。
また毎日立って礼拝の務めをなすことは意味がない、とあります。即ち
へブル10:18に「これらのことが赦されるところでは、罪のための
ささげ物はもはや無用です。」(新改訳) とありますので、先の聖句と
合わせて考えると、 毎日立って礼拝の務めをなすことはもはや無用である
ということになります。

詳しくはドクターK氏のブログ:「みことばざんまい」をご覧下さい。
いずれにしろ、少なくともこれら3箇所の聖句からは、今日の
「いわゆる礼拝」を擁護するようなヒントは全く見ることが
出来ない事は明らかです。
このようにして 新約聖書において「礼拝」と訳された総ての箇所を
総点検することは多大な益があるでしょう。
なぜならば 今日のキリスト教宗教において「礼拝」はあたかも
その「扇の要」的役割を演じているからです。

仮に今日の「いわゆる礼拝」が神の御心から逸脱したものである
ならば キリスト者が毎週熱心に励行しているあの実行は正に
イエスが重く断罪する「言い伝え」であることになり、それは極めて
深刻な事態である と言わなければなりません。
私たちはイエスのように、キリスト教の長い長い歴史の中で
肥大成長して来た「昔の先祖達の言い伝え」を断罪し
神の御こころ「神のことば」のみを断固選び取るべきです。
(マタイ15の1~9)

0 件のコメント: