2008年7月30日水曜日

礼拝と訳された原語について(3)

4.
ヨハネ4章の「礼拝」の正体
ドクターK氏曰く:
ヨハネ4の23aの直訳は「父を心から慕っている者たちが
霊と真理の中で、父を大いに慕い求める時がきている、今がその時だ」
或いは「心底父に惚れこんでいる者たちが、霊と真理の中で子犬が
喜び跳ねるように、父と戯れる時が来ている、今がその時だ。」であり、
ヨハネ4の24は「神は霊である、だから、彼を慕い求める者たちは
霊と真理の中で、慕い求める必要がある。」なのです。

日本語訳を見ると、日曜礼拝を守らない者はキリスト者にあらず、的な
誘導の意図が感じられます。原典にはそんなことは全く書かれていません。
主イエスがとりなして下さっているのだから、安心して父と戯れよ、
これがこの聖句の真意です。

Mr.Suger の感想:
へーそうなんですか。「礼拝者」でなく「心から慕い求める者」、「礼拝する」
でなく「大いに慕い求める」なんですね。もしそうならば「礼拝する」は
本当の所「礼拝する」ではなく、逆にとても親密な愛を感じさせる表現だった
と言うことになります。即ち 原語は「礼拝する」が与える語感とは全く
対極的なイメージの言葉だったのです。 だとすれば これは「単なる誤訳」
で片付けられる問題ではなさそうです。

3 件のコメント:

mopoopoo さんのコメント...

これはシンクラティズムといわれる問題とも関連しているように思いますが、いやゆる、キリスト教がほかの文化圏に宣教されていくときに、その地域の土着の宗教と結びついてしまうという現象です。
ある救われたばかりの人が、聖書を友人にプレゼントしたいと思ったときに、聖書という「神聖」なものを、郵便で送るなんてとんでもないといってわざわざ手渡しにいったという話を耳にしましたが、今話題になっていることと何か共通なものを感じます。私は礼拝が「誤訳」であるとは言い切れないと思いますが、Dr.Lukeのいうとおり「聖書を日本語で読んでいてはだめだ」と思います。べつに日本語の聖書を読むなという意味ではなく「聖書の言葉は聖書の言葉で理解する」すなわちイエスがみ言葉を開いたように(ルカ 24:32 英語訳、新改訳では欄外に)この礼拝という言葉を開いていただくことでしょう。

Mr.Sugar さんのコメント...

ヨハネ4章の場合の礼拝と言う訳を好意的に取れば、旧約における祭司の務めとの関係において礼拝と言う訳を選んだのではないかと思ってもおります。

しかし、礼拝と言う言葉の語感には「拝む」
と言うイメージがあります。ですから、ヨハネ4章の礼拝と訳されたギリシャ語にその「拝む」と言う意味が全くなければ、他の日本語をあてるべきではないでしょうか。「拝む」と言う意味あいのギリシャ語にはむしろ
「礼拝」と訳すべきでしょう。

ましかし、ここの論議のテーマは「礼拝」と聞いた人の持つ「礼拝」に対する異常な宗教的権威づけの事実でしょう。宗教的権威づけは直ちに人を不自由にし、キリスト者の中の
生けるキリストさえも拘束してしまうのです。その点こそ問題なのだと思います。

Mr.Sugar さんのコメント...

もぶぶさん、ルカ24章を忘れました。
おっしゃること心からアーメンです。
確かにイエスによって目が開かれるのでなけば、礼拝と訳されたことばの真の意味も、
イエス御自身も真に見ることは出来ないことは明らかです。