2008年7月31日木曜日

サマリヤの女への啓示

「礼拝する」と訳された原語が「慕う」だとすれば、ヨハネ4章で
サマリヤの女は「父を慕うべき場所」はどこなのか、この山か
エルサレムかと言う問題を主イエスに持ちかけました。

さて
女が属していた旧約時代は(新約時代と異なり)言わば完全に
「時空の中の物質の時代」でした。ですから旧約下においては 
一定の時と場所の制限の中で 物質の供え物を通して「父を慕う」
必要があったわけです。
それが祭司を中心とした「公に父に仕えること」なのでしょうか。殆どの
訳者が「公に仕えることを通して父を慕う」を「礼拝する」と訳しているのは、
それを背景としているからかも知れません。

ここで 私達は
ユダヤ教下においてその「慕い求め」がいつの間にか、真実で実質的な
「慕い求め」を失ってしまい、単なる儀式に堕していた事実を
思い起こさなければなりません。

そこで イエスは
その機会を 御自身の御業に関して女の目を開くチャンスとされたのです。
即ち主は:
間もなく彼が迎える十字架の死において
①特定の場所と時間の拘束と、物質の供え物という制限一切を 
最後のアダムである御自身の物質なる肉体に総て包含し、
②それら全部を御自身の肉において十字架に釘付け破棄し
(コロサイ2の14)
③そしてその後 栄光なる復活に入られる、
と言うことを前提として次の宣告を女にされたのです。
「(時代は変わる)神は霊であるから 父を慕い求める者達は
物質によってではなく 霊と真理の中で慕い求めるのです。
その時が今正に来ようとしているのだよ」と。

復活において
キリストは時空を超えられました。そのキリストを受け入れた
私達は人の霊の中にその無制限のキリストを所有しているのです。
(何という真理でしょう!)だから私達も時空を超えて今(どこでとか、何の日
と言う区別の制限を受けることなく)常に「父を慕うこと」が可能なのです。
これが新約のキリスト者です。

「主日礼拝を守る」と言う考え方の中には 人をユダヤ教に引き戻そう
とする何ものかが働いていることは明白です。それは
「神の御業の中心であるキリストの十字架と復活」を無にしてしまう
可能性さえ十分にあると私は考えております。

2 件のコメント:

mopoopoo さんのコメント...

DR.Kさんのブログも拝見していますが、神が意図した礼拝という真理の中へと主が導いているのに感謝です。わくわくしてます。

Mr.Sugar さんのコメント...

あなたのコメントで私もワクワクです。

礼拝する=心底慕う=愛する、いいですね。
それもいつでも どこでも、誰とでも。

それを、決まったある日の1時間半で
まとめて集中して行うなんておかしいです。

今ちょうど、薪割りの一休みの中で 
もぶぶさんのコメントに触れることが
出来ました。ホンとに今 もぶぶさんと
一緒に父を愛している気持ちです。

山の中たった一人で
薪割りをしていても、その後でも
礼拝をすることは可能だと思います。