2008年7月9日水曜日

「礼拝」と言う名の興行

*神は人の生活を愛す(4)*

物事にはおおむね優先順位というものがあります。
①キリスト者には先ずどうしても 人前ではなく神の前における隠された
生活が無ければなりません。それが総ての根となります。その根が
シッカリと存在するならば そこに必ず発生するのが他のキリスト者
との交わりへの大きな欲求です。
(その欲求の有無は①のチェックとなります。)

②その結果 自然に日常生活レベルでのコイノニヤ(交わり)が現れます。
これは無理の無い人間生活のものですから 自ずと少数の
キリスト者間において行われます。
このコイノニヤにおいて「人々に隠れた所で経験された死」
の結果として復活が現れます。それは「復活のキリスト現象」
に他なりません。復活のキリストの時空への出現は必ず敵の後退となり、
敵の不法占拠に対する神の力と権威による侵害・進行となります。
それこそがこの時代における神の国の拡大です。
従って②こそはエクレシアの敵に対する戦いの前線なのです。

③ただ時には 少数のキリスト者間のコイノニヤが更に拡大した形の
大きなコイノニヤが必要かも知れません。その多数の集まりの機能には
二つの側面があるでしょうが、それは後日述べたいと思います。

さて
③とは以上のような経過を経て初めて 自ずと出現するべきものです。
③の必要が生ずる前には先ず①②が存在していなければなりません。
これは犯すことの出来ない優先順序です。
何故なら③は①と②の為であるからです。

しかしもしも①②を無視して③を第一優先にする、或いはそれしかない、
とします。そこにはどんな状況が現れるのでしょうか。
いずれにしろそのような多人数のキリスト者の集まりの性質は
とても難しいものとなります。即ちそのような集まりとは
一体何であるかはとても分かりにくいのです。

しかし私に言わせるならば、それはどうしても「礼拝」と言う名の興行、
にならざるを得ないのではないかと思っております。
興行とは
ある辞書によると次のように説明されております:
1 観客を集め、料金を取って演劇・音曲・映画・相撲・見世物などを
催すこと。また、その催し物。「顔見世―」
2 儀式などを催すこと。 「禅法の―天下にかまびそし」(太平記)

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