*神は人の生活を愛す(5)*
「あなた方は古い人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、新しい人を
着たのです。・・そこには・・区別はありません。キリストが総てであり、
総ての内におられるのです。」(コロサイ3の9~11)
第一に
キリスト者が一人でいる時、そこに隠れた根の生活があるべきであり
その結果、命の引き寄せによって2、3人が接触し集まり、それが
日常の人間生活における エクレシアの実行的な前線となるのです。
しかしながらそれらが全く存在しないのに敢えて多人数の集まりを持つ
と言う場合、その集まりは必ず興行の性質を帯びることになります。
そしてその興行の第一の特徴は区分、区別、切り分けです。
先ず興行には
集まる場所と時間の明確な区分が必要です。 そもそも興行を打とうと
する場合、場所と時間を明示しなかったなら興行は成り立ちません。
劇場、寄席、相撲等は総てある特定の場所(箱)の中 特定の
時間内で執り行われるのです。そうでなければ集客は不可能であるから
です。そして当然 興行の場所(箱)には、その出し物にふさわしい外観、
しかるべき雰囲気、体裁が施されなければなりません。人々を惹き付ける
キャッチポイントは 興行にとって極めて大切な要素であるのです。
それは「さえない」日常生活において人々が目にするものとは
完全に「区別」されていなければなりません。
それは「礼拝」と言う興行:「非日常的かつ超人間的な雰囲気の箱の中、
よい話と音楽が供せられる 神を拝む為の厳かな
ワンセットの区別された時間帯」においても同様です。
*
コロサイ3の11は原文においては「~の区別は無い」ではなく、
根本的に「~は無い、キリストが総てである」と言うものです。
それは神の目から見て「存在の名に値するもの」は復活のキリスト
以外は何も無いと言うことです。何とそれは ただ彼のみが
「I AM」 (私は存在する、私こそ存在・真のリアリティである)を
名乗ることが出来る と言う意味です。
しかしながら人の目には「あれがあり、そしてこれもある」と写り、
そして更に 人々はあれとこれを「区別」するのです。
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