2009年4月1日水曜日

今朝、ある兄弟のメールから

以下はある本の記述です。

『私はキリストのために生きます。
これはどのような意味でしょうか?
多くの人は、主のために生きるとは、「主のために働くこと」である、
あるいは、「主を愛すること」であると思っています。
そうではありません。

主のために生きるとは、神のみこころのため、
神の利益のため、神の王国のために「生きること」です。(中略)

私たちが単に、私たちの自己のために、神からの慰めと幸いを
求めているだけなら、それは神のみこころを行なうことではありません。
(中略)主のために生きるとは、自分自身のために少しの余地も残さず、
進んで自己を完全に死に渡すことを意味します。』


さて、
総ての状況は神の御手の中にあり、自己を死に渡す
絶好のチャンスです。実は、私も仕事の上で今
とてもとても苦しい立場に立たせられております。
柄沢兄弟はしかし、比較すら出来ないような、言語に絶する
苦痛、苦悶の中におられます。
にもかかわらず私はこの時、兄弟がその苦しみのさ中においてさえ
主イエスと共に「真の十字架の死」を通過して
行かれるようにと祈らざるを得ないのです。



Sugar:
イエスは弟子はおろか、彼が忠実に従われた父からさえ見離され、
全く完全孤独の中、ただ御こころ成就の為に、
一人黙って死の真ん中を通って行かれました。
しかし私達は孤独ではありません。その主御自身が私の苦しみを
共に担われるだけでなく、「キリストの苦しみの交わり」
(ピリピ3の10、原文)をも与えようしておられるのです。

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