2009年4月4日土曜日

献身

「あなた方の手足を不義の器として罪にささげてはいけません。
むしろ、死者の中から生かされたものとして、あなた方自身と
その手足を義の器として神にささげなさい。」(ローマ6の13)
これは確かに「神の勧め」ですが、決して「神の強制」ではありません。

ここに一つの事実があります。それは、
神は「人の自発性」を事のほか尊重される、と言うことです。
確かに信仰とは「神ご自身がキリストにあって既に達成されたこと」をただ
信じ受け入れることです。それ故にキリスト者の生活とその態度は、総て
「神から受動的に受け入れるだけである」とキリスト者は誤解し勝ちですが、
実は決してそうではありません。

自由意志、これがキーであり、人と神の間にある決定的な要素です。
神はいったん人に自由意志を与えられた以上、神にさえ介入出来ない
「人の部分」と言うものが確かにあり得るのです。
敢えて言えば、神はあの日以来、大いなる制限の中にご自分を
閉じ込められた、と言ってもいいでしょう。偉大な神は、人が自由意志を
行使し、神を拒絶する「権利」をさえ人に与えられたのです!
従って「人の自発性」というものが、神と人の双方にとって極めて重大な
意味を持つのはこのような背景から十分言えることなのです。

それでは、神が事のほか喜ばれる人が実行すべき「その部分」とは
一体何でしょうか。それは「人が自分の自由意志を十分に行使し、立って、
神の御こころ、神の意志を、自分の意志として選らび取ることです。

前述の「自分の手足を神にささげること」はその最たるものでしょう。
人にその義務はありません。しかし、それをあなたが神の心をくんで
自発的に行うとき、神は、あなた自身とあなたの手足とを、事のほか
喜んで引き受けられるのです。これこそが真に聖書的な「神への献身」
です。(現在広く常識となっている「職業的な伝道者に志願する」
等と言う意味は聖書のどこを捜してもありません。)

あなたが、あなた自身を神にささげた日以来、神はあなたの手足、
体の総てを、神ご自身のものとして受け入れられるでしょう。手足とは
何か時間の中の存在です。従って神は、あなたの人生の残された
総ての時間をも、あなたの手足同様、御自分のものとして
ご覧になり、取り扱われるのです。

それは、神と私にとって、
その日までの「私のための神」から「神のための私」への
一大転換の日となるのです。

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