2009年4月24日金曜日

無数の礼拝が必要です

簡単にお答えします。
総ては「神対サタン」です。ですから私達は
断固 神に組し、サタンに恥辱を加えるべきです。
キリスト者が今敢えて時空の中に残されている意味は
正にその点にあるのです。

「今回のこと」もおそらくそれでしょう。
神が何かをなさろうとするとき、何故か彼は先ず
キリスト者の霊に「ある負担」を与え、そして祈らせます。
しかし、祈っても初めの内、思いの中ではそれが何であるのか、クリア
でないことが多いのです。しかしとにかくその時あなたは、神に対して
その負担を祈りとして「あのうめき」と共に表出しなければなりません。
だからこそ、様々な「祈りと交わり」(礼拝)が多く必要とされるのです。
(これこそ、実は「戦闘」の開始なのです。)

以上の一つ一つの過程がもしも「本物であるならば」そこに必ず
サタンが到来し、キリスト者の礼拝と実生活を迫害、攻撃します。
(しかし多くの場合は、残念ながら本物ではないので、
サタンはそれらを殆ど無視することが出来ます。)サタンの攻撃の結果、
それは一見、手ひどいキリスト者の敗北のように見えます。
(主の十字架のように)

しかし、実はその時こそ、永遠性のキリストイエスの復活が、時空内に
到来し、サタンの時空内現象に対し、遥かに超越するチャンスとなり得る
のです。即ち永遠のキリストの復活の超越性が、様々な勝利現象
として時空に残されている「弱くはかなきキリスト者の肉体」と
その環境の中に現れるのです。

これこそが今、時空(特に地上)を支配するサタンが恥辱を受ける方法です。
これが神のやり方の原則であり、このようにしてのみ、神の業は進んで行く
のです。この原則が働いていない いかなる「キリスト者の活動」も
絶対的に「神の業」の名に値することはありません。

今こそ私達は「神の御こころ」とそれを遂行する
神の原則(十字架と復活)を内的に見、尊重しなければなりません。
神が何かをされようとするとき、いかなる時であろうとも私達は留まって
一休みなどすることなく、神と共に前進しなければなりません。(しかし
ながら真に「神と共に前進する」とは「真に死ぬ」ことに他なりませんが・・)

そのためには、「日々の礼拝」(真の交わりと祈り、そして賛美と感謝)は
どうしても欠かすことの出来ない要素です。従って真の礼拝と言うものの
背景には必ず「激しい戦闘」が存在するのです。ですから
この時代(ダビデの時代)における礼拝は必ず
「敵の前の宴」「荒野の食卓」(詩23)でなければならないのです。

①神からの負担と、祈りへの促しが来る→
②日常生活におけるキリスト者の祈りと交わり(礼拝)→
③必ずサタンからの死と虚偽による攻撃、迫害がある→
④「永遠性の」キリストの復活・超越、勝利が
明確な現象として「時空の中へと」現れる→
①「神からの、更に進展した祈りと交わりへの促し」
この循環は極めて重要です。

必ず「このような循環」がこれから地上の至るところに
出現しなければなりません。それが現実となる時にこそ初めて
(隠された総てがあらわにされる、ソロモンによる
絶対的な王国へと)真に時代が転換する可能性があるのです。

ですから聖徒達よ!
あなたが住むその場所で、神が与えたあなたのパートナーと共に
この「礼拝の生活」に、今直ちに入られるようにと切望いたします。
何故なら今、時は迫っているからです。
(「使徒の働き」13の1,2)

4 件のコメント:

Luke さんのコメント...

Amen

Mr.Sugar さんのコメント...

アーメン!

さとう さんのコメント...

総ては「神対サタン」です

真の礼拝の背景には必ず「新しい戦闘」が
存在するのです

この時代における礼拝は必ず「敵の前の宴」
「荒野の食卓」でなければならないのです

一連の流れの中で語られたこの言葉………
とても、とてもアーメンです
そして ハレルヤ!!!

Mr.Sugar さんのコメント...

姉妹、有難う。

私達の主は 今日も前に進み行こうと
されておられるようです。

自分を見つめ、自己憐憫の深みに
身を委ねるべきではありません。

私達も、この主と共に
きのうも、今日も、そして明日も
進んで行くべきです。