2009年4月17日金曜日

私たちの自由

礼拝は使徒信条から始まって同じ時間、同じプログラムの
流れに型組みされて・・・・肉はそれで一安心
「今は教会に行っていない」というと「では礼拝はどうして
いるの?」と聞かれる。
「だって、朝起きた時から礼拝でしょ?」と問うと
しばし不思議な沈黙が漂う。

もちろん一日中主を意識して主のことばかりを考えて
いるわけではないけれど、
日曜礼拝をやめてからというもの、主の事柄を考えたりを
主に時間を捧げたりまた、思わぬ交わりが開かれたり、
2年前の状態と比べたら雲泥の差、
こんな豊さがあったのかと思う。

「教会」を否定しているのではない。新生してから教会に躓いた
という思いは一度もしていない。むしろ自分を十字架につける
訓練の良き場であると今でも思う。それほど自分という存在が
厄介であることを教会は私に教えてくれた。
教会をとおして豊かに主が働いてくださったことも大きな事実だ。

だからこそ、そのなかにある「不自由」が悲しい。
でもそれは「きれいごと」だとよく人は言う。
でもわたしは妥協したくない。こけようが躓こうが、この先
小さな教会に導かれようが、主がご自身のいのちをかけて
解き放ってくださったこの自由を何ものとも引き換えに
したくはないからだ。

ただ十字架を日々見上げて生きる事、主の大きな目的に向かって
歩むこと、開かれた交わりを主のなかで慈しむ事 
それはどこで何をしていようと、
「この地」に来てからも変わりない主からの導き。

今朝もささやかな主の語り、
「私がすべてを知っているから いいではないか」
はい、おまかせいたします。

・「キリストはこの自由へと私たちを解き放ってくださったのだ。
それゆえに、あなたがたは堅く立って、
再び奴隷状態のくびきにはまってはならない。」ガラテヤ 5章1節
・「まさに、キリストイエスにおいては、割礼も無割礼もなんの
効力ももたず、むしろ愛をとおして働く信仰が効力をもつの
である。」ガラテヤ 5章6節
(ブログIn Adorationから)

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