2009年4月26日日曜日

真のダビデ、ソロモン、ブドウの木&永遠の命

「真のダビデ」とはエクレシア時代における王キリストです。
「ソロモンより勝った者」とは次の千年期における王キリストです。
キリストだけがいつの時代においても「ザ・王」であり、「ザ・主」です。

ヨハネ15の1で、主イエスは「私は真のブドウの木」と言われました。
この言い方をそのまま受け入れるならば、ブドウの木とはキリストであり、
他のいわゆるブドウの木は、真のブドウの木ではなくなることになります!
これは大変な主張ですが、こういう表現は新約聖書にいくらでもあります。
(真の~、永遠の~、等はみなそうです。)

そうです。新約聖書における基本的な主張の一つは正に
この点にあるのです。即ち、紀元前千年頃に生きていたあのダビデや
ソロモンは実は真のダビデ、ソロモンではなく、そのリアリティは
キリストである。彼らは単に、真のダビデ、ソロモンとは
いかなるものであるかを描く絵、説明、ひな型に過ぎない、
と言っているのです。即ち、リアリティ、実在、真の存在とは
神ご自身であり、キリストであり、復活のキリストである、
と言っているのです。

そういわれて見ると★「究極的な過去」においては時空も、宇宙も無く、
ただ霊である神のみが存在していたはずです。(もしそうでなければ
時空や宇宙が神よりも偉大であることになってしまいます。)
だから初めのリアリティは見えないもの・霊なる神でした。
それは創造されず、時空の前にあり、初めも終わりもない正に
「存在」そのものでした。それこそが真のリアリティです。
聖書で言う「真の」「永遠の」というのは正にこの意味で、なのです。

ですから後に「神のことばによって」出現した「時空と目に見える
その中の万物」の「実在の度合い」は「真の実在である神」の
「実在の度合い」と比較するならば問題にならないくらいに低いのです。
それは限りなくゼロに近づきます。いや結局それらは実在ではないのです。

所で、私達が受け入れ、私達の中にある「永遠の命」とは
正にそのようなたぐいの「真の」命です。だからこの場合の
「永遠」とは、この物質界にある「いわゆる時間」のエンドレス
などではありません。永遠の命とは、初めからあった、
創造されることのなかった、しかも人の死を破壊し尽くし、今や
何物にも制限されることのあり得ない、卓越した神の命なのです。

・神はモーセに言われた:私は「私はある」という者である。
 意訳すれば、私こそ「存在」である。(出エジプト3の14)
・私(イエスキリスト)が実際なのです。(ヨハネ14の6)
・私達は見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。
 見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
(Ⅱコリント4の18)

★「究極的な過去」:ヨハネ1の1「初めにことばがあった」の
初めに、が「究極的な過去」、いわゆる「永遠の過去」です。
創世記1の1の「初めに」は時間の創造における「初め」です。

「初めにことばがあった。
ことばは神と共にあった。」

2 件のコメント:

mopoopoo さんのコメント...

ヨハネ福  6:58 これは、天から下ってきたパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」
ここの「永遠に」の「に」の原語は「エイス」(〜の中に、〜の中へと)です。ですからここでイエスがいっているのは、私を信じる者は長〜くエンドレスに生きるといっているのではなく、私を信じる者は「永遠の領域に」生きるといっているのでしょう。

Mr.Sugar さんのコメント...

ただ、感謝、賛美をささげます。