2009年4月6日月曜日

知覚を超えた喜び

*あるメール交換から*

神に自分を捧げてからは、
自分の苦しみは神の苦しみとなり、
またそれを自覚(理解)することで、苦しみの共有に至る。
生のすべてが主に取って有用となり、価値を持つ。
主が受け取って下さったあとは、
それは霊においてのことがらなので、
意識において何を感じていようと、
あるいは感じることができなくても、
関係ないのでしょう。
私もまた、ただ主を信頼していようと思います。

スタート地点においては「自分の苦しみ」であっても、 
霊において主と共有するのは、それも含む主の
さらに広範囲に渡る苦しみ…
「聖徒たちが完成に至るための苦しみ」なのでしょう。
そこに、共に預からせていただける。何ということでしょう。
理解が深まりました、感謝です。



「意識において何を感じていようと、
あるいは感じることができなくても・・」

そうです。
私達の場合、
苦しみのただ中にいるとしても
「主と共なる苦しみ」であるが故に
「ある深い喜び」が確かにあるのでしょう。
しかし、それは殆ど知覚出来ない、知覚を超えた
苦しみの中の喜び。

しかしかつて
「父と共なる」苦しみをさえ
完全に奪われた、ただ一人の人がいたのです。
しかし「その人」にも、唯一確かな
知覚出来ない喜びがあったのでしょう。
それは、命なる父からさえ、
遠く切り離されたその無限の苦しみと死こそが
正にその父なる神の「御こころ」。

そして、
この苦しみと死は、
復活への只一つの門であり、
かつては神の敵であった、多くの人々をして
「超越した彼御自身」・
「エクレシア」の中へと至らしめ得る絶対確実な門。


「私が(十字架に)上げられるなら、私は総ての人を
自分のところに引き寄せます。」(ヨハネ12の32)

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