2011年1月31日月曜日

あるメールから2

しかし間もなく女は「イエスの言葉」(神の言葉)
に触れ 礼拝に関する光を得ます。
すなわち女は「ことば」を通し アタマではなく 
上からの光によって 礼拝とは何かに「触れる」のです。
時いたって女は神からの啓示を得たのです。

さて この光とはどのようなものでしょうか。
それはイエスという源から流れ出した命の結果です。それは
ヨハネの1章に
「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった」・・
そして「真の光が世(おんな)に来ようとしていた」
とある通りです。

だから大切なのは
「命と光の源と、それが生きたものとして
人の中へと実際的に流入すること」です。
更にまとめると その実体とは「命と光の流れ出としての
キリスト」である、と言えるでしょう。(このことは 
ヨハネによる福音書の主要な主題でもあるのです。)

さて
「この流入」さえあるならば そこには必ず
驚きと喜びと満足が表れます。
だから28節によると 女は「物質的なこの世の水」を
忘れてしまったほどです。

そして次に
この実質(じっしつ)はとても自然に更に多くの
人々の中へと流れ込まないわけには行きません。
その記録が4章42節までに書かれています。
(その人々の様子はイエス復活後に現われたエクレシアの
一つの絵であるとも言えるでしょう。)

即ち女の中へと流入したイエスといういのちが、今度は
天からの光を発する命の川々として女の腹から流れ出、
遂に 命と光が多くの人々へと到達し、さらに川々の
流れは、多くの分岐(ぶんき)をくり返しつつ
地の四隅にまで拡大して行くのです。

だから最も簡単に言えば 礼拝とは交わり、流れ出、流れ入り、
交流であり、一言で言えば 光を発するいのちの行き来、 
循環(じゅんかん)なのです。そして感謝なことに
「私達の交わりとは、御父および、御子イエスキリストとの
交わり」そのものなのです!(Ⅰヨハネ1の3)



私は今、この前の貴重な休日
お二人のくつろいだショッピングやお風呂の時間の中にさえ 
きっとイエス御自身が介入しておられたであろうことを
信じないわけには行かないのです、アーメン!

2 件のコメント:

鳩 さんのコメント...

アーメン。その日常生活の中にあっても、御夫妻の魂がキリストに安息されておられたのでしょう。

励まされる、嬉しい記事を感謝します。

Mr.Sugar さんのコメント...

鳩さん
御ぶさたしております。
お元気そうでなによりです。

お互い
常に主と共にありたいものですね。

明日山に向かう積りです。