2011年1月14日金曜日

普通の生活へ

今朝
外がマイナス12度、内が1度で内外差13度。(田村市は
マイナス5度と 最高がマイナス1度)晴れだが極寒である。

今日は新しいスタートの日、徐々に病気以前の生活に
戻して行きたい。
今日は フラフラ感の中でそれをする。郵便局、病院、買い物等
がある。その前に片付けと掃除。(掃除はムリかな?)

明日、あさっては「一時雪」となっている。これなら明日の
下山回避もあり得るか? いずれ天気情報から目が離せない。


「私達は 鏡のように主の栄光を映す・・」
(Ⅱコリント3の18)私は鏡です。だから私の使命は 
主という光の源の方向に私そのものを セットするだけ。
あれもこれも忘れたとしても これさえ出来れば
合格点はもらえるかも知れない。

その場合、光は時に他の人にさえ届けられる。その人は
私を介して 光そのもの(啓示と暖かさ)を得る。
(更に太陽は人が生きるための総てです)
─以上がこのたびの病気によって再確認させられた
ことの一つでした。

6 件のコメント:

電気屋 さんのコメント...

お風邪の方、快復に向かっておられる様で何よりです。

長野市街に降りる渓谷を下ります。
特に秋から冬の初めが綺麗なのですが(冬は凍結)湖面に逆さに写り込む景色が年を重ねるほどに綺麗に感じています。
大抵は家内が横にいるので「水面に綺麗な景色が見えるのは、その風景が綺麗だからで、水とはあまり関係ない。でも綺麗な水の方が大抵はきれいに映るし波だっていたら綺麗な物もうつらない。」と、話しながら
ちっぽけな水たまり程の自分にキリストをどれだけ移せるだろうかと考えます。
何度でも再確認が私たちには必要なので、様々な事柄を通して飽きる事無く啓示してくださる主に感謝です。

Mr.Sugar さんのコメント...

美しい描写を感謝します。

鏡や水面が写すものは「そのもの」ではない
としても 光はそのものですよね。

パウロは後半で
「そのもの」によって
私達が創り変えられる、というような
ことを言っているのかも知れません。
(単なる写真や絵ではなく)

電気屋 さんのコメント...

いくら鮮明にキリストを写し出したとしても、鏡や湖面はキリストではない。

しかし、確かに光が湖面を見る者の目に入るとき、見る者の目にはキリストが映し出される。その光はまぎれもなく彼から出たもの。
生まれたままの時の私はいくら求めても調べ上げても覆いがかかっていてイエスを見ることはありませんでした。またキリスト者となってからも自ら主との間に覆いをかけた事もあります。ですからキリスト者であるのに闇の中を歩み続けた時もあります。
私たちは神にはなれないが、神は男と女に人を造られた様に、形は違っていても、主の霊によって私たちはイエスと同じ像に造りかえられていくので、一見この肉的には空しい様に見える奉仕が失望に終わることが無い事を見る。

キリスト者は、ただ湖面の様に表面だけではなく、主の憐みによってイエスの様にさせていただける。
ここにキリスト者の希望がある。
その希望は失望に終わることが無い。

感謝です。

Mr.Sugar さんのコメント...

主と私達は一つである。
しかし当然、区別はある。

神と人には
当たり前のことだが
厳然たる区別がある。
しかし、私達は彼と一つである。

何故なら神が人であるイエス・キリスト
によって
その不思議を達成されたから。

聖書はそのように言っていると
信じております。

電気屋 さんのコメント...

アーメンです。
私もそう信じております。

交わりを感謝します。
断りなく個々のコメントを私のブログに掲載させていただきました。
どうぞご了承願います。

感謝

Mr.Sugar さんのコメント...

アーメン、感謝です。