2011年1月21日金曜日

神の第二の創造

Ⅱペテロ1の3
the one who called us by his own glory and excellence.
(彼自身の栄光と卓越性によって私達を召しだされたお方)

召し出されたのは「実に強大な粘着力をもつこの世界」
からである。そしてその召しだされたた時に費やされた
神の力とは この神のみが所有される栄光と卓越性の中に
存在している、とペテロは言う。

その神の力によって先ずは 私達の心がこの「第一級の事実」に
関心を寄せる日が用意された。そして遂に私達は何故か 
人々が聞くことも見ることも出来ない、極めて信じ難い
それらの言葉を信じるに至ったのである。
この「あり得ない現象」の背後に「悪魔の粘着力に勝る」
卓越した神の力が働いていた、とペテロは言うのだ。

ここで目を転じて見ると 
「神の初めの創造」は実に壮大無比な大スペクタクルであった。
しかし神が最も大切にされる第二の創造・いわゆる新創造は
(実に不思議なことであるが)その壮大無比な大スペクタクル
とは全く無縁であり、むしろそれと真逆の状態の中に存在する。

この第二の創造が開始された最初の日とは
あのゴルゴタで起った奇妙な事件の3日後、人々が
(さらに有名な弟子達でさえも)まだ深い眠りに落ちていた 
あの夜明け前に実に密かに発生したのである。

さてしかし事は、前述の私達が人の目には信じ難いそのような
言葉を信じた際も全く同様であったのではないだろうか。その時
私達は決して そこに起った現象が壮大無比な大スペクタクル
であるとは感じなかったのである。
むしろ この新創造現象は 人の心の片隅で極めて密かに
発生するが故に、何とその本人でさえ気付かないことが多い
のである。それはあの三日目の夜明けのマグダラのマリヤの
経験と同様、むしろ何が何だか分らない状況の中で進行する
と言ってもよいのではなかろうか。

しかし確かにその時にこそ
私達の為に 神の最大の栄光と力とが(実にささやかと見える)
私の「回心と信仰」の背後において働いていたのである。
あの壮大なスペクタクルである旧創造は「神の口の言葉のみに
よってのみ」実現し得た。
しかし神の心の中心をさえ真に捕らえることが出来るこの
新しい創造は(イエスが十字架に向かわれた時の決心と神への
信仰において費やされた力をさえも含み)「神御自身の栄光と
卓越性」によってのみ初めて実現し得たのである。

今誰の目にも 神による第一の創造は明らかである。
殆どの人の目には そのような旧創造現象こそが「総ての総て
である」としか写らない。しかし私達は今 この種々雑多に
展開するこの世の現象の背後において あの最後の時代の開始の
時、神が密かに御子の命という最大の力を使い尽くして勝ち
得られた「第二の創造の意味」を霊的な目をもって
真に見る必要があるのではなかろうか。

しかし、
今この最後の時代のその終焉(しゅうえん)の時
イエスの復活の中で実現した新創造現象を 
今日 自分の生活の中でこそ 日々密かに発見する目は
更に幸いであると言えるであろう。

「今のこの時代において」神はキリスト者達に対し 壮大な
スペクタクルのパフォーマンスを期待することなど断じて
あり得ない。神は正にその真逆 即ち、私達が何でもない
ささやかな日常生活において密かに発生するキリストの
新創造現象 即ち神の第二の創造現象のみを
高く高く評価されるに違いない。

2 件のコメント:

Salt さんのコメント...

新しい創造の力は、ささやかな日常に密かに表されるものであるというのは、そのとおりだと思います。

願わくば、時折現れる現象としてではなく、私たちの日常のすべてが、新創造の復活の力に満ち満ちたものとなりますように。

Mr.Sugar さんのコメント...

一部の「普通のキリスト者達」が

「生涯の中 数回しか起らない
素晴らしい経験」が
日常的な当たり前の経験となる時、

この時代は結束されると
固く信じております。

その葉でさえ諸国民癒す
あの木の実は
少なくとも毎月 実っていたようです。