2009年7月23日木曜日

祭壇に下る火

私達は神以外のものを何と多く愛することでしょう。それは、或いは
アブラハムにとってのイサク、ヤコブにとってのラケルのように、
今私達の最も親しい人かもしれません。

神は私に対して、それらの私が最も愛する者を 敢えて「祭壇の上に」
置くことを求められます。主は「ご自身と競争する私が愛するもの」、
その保留を決して看過されることはありません。私達が所有しているものは
総て、神に対して完全に献げ尽くされるべきです。これは聖書全体が私達に
明らかに語っている当然の主張ではないでしょうか。その意味において今
「ほどほどに」とか「適当に」などと言う言葉は全く該当しません。ただ
単一に神を愛し、他の私の愛を祭壇の上に献げること、それだけが、
キリスト者が霊の力を得る方法です。

献げ物が祭壇の上に置かれる時、その時初めて、火は天から下ります。
祭壇(十字架)が無ければ、天からの火はあり得ません。私が十字架を
負うことなしに、即ち「私の愛する総てを主に献げること」なしに、
どうして聖霊の力を見ることができるでしょうか。祭壇にはその上に
置かれる献げ物は欠かす事が出来ません。何故なら天からの火は、ただ
祭壇の「いけにえ」のみを焼き尽くすからです。

兄弟達よ、頭で十字架を理解することによって、或いは、十字架について
語ることによって 聖霊の力を得ることは不可能です。聖霊の力を
得るのは、ただ 総てを献げ尽くすことによってです。
もし私達に、まだ寸断してない秘密の関係があるのなら、またもし私達の
心の中に 羊や牛、或いはアガグを神に献げることを惜しんでいる部分が
少しでもあるのなら、私達を通して現される聖霊の力を見ることは決して
出来ないでしょう。

キリスト者が「心を尽くして主を愛すること」がいかに重要であるかを、
私達は決して無視することが出来ないのです。何故なら、神に対する
キリスト者の愛以上に神の心を満足させ得るものは他には
あり得ないからです。それは神の心なのです。

☆    ☆
これは実体験から得た彼自身のリアルで切実な証でもあります。
それにしても、創造主が それほどまでに私達を愛されるとは!

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