2009年7月8日水曜日

神の原則と感情

正常な行動は必ず一定の原則に従っています。
霊には法則と進路と原則とがあります。従って霊に従って歩くとは、
全面的に霊の法則に従って歩くことです。

霊の原則において、総ての是と非の「おおもと」には、明らかに
定められた基準があります。空が晴れていても曇っていても、もしそれが、
しかりであれば 必ずしかりです。その人が幸福でも、落胆していても、
もしそれが否であれば否です。そのように、正常なキリスト者の生活も、
必ず一定の原則に従ったものです。

さて感情による生活は、原則に従った生活とは全く異なります
もし信者が自分の感情を死に渡していなければ、彼の生活はきっと
基準のないものになってしまうでしょう。何故なら、感情は
勝手気ままに変化するからです。

従って彼の生活には定まった原則がなく、彼は変わりやすい感情の
感覚に従って生きてしまうのです。自分の感情に従って歩む信者は、
あることを行うかどうかを決める際、神の原則などあまり意に介さず、
或いは忘れ、そしてまた「人の正当な理由」(本分)も尊重しません。
彼は自分の感情に強い影響を受け、ついそれに従ってしまうのです。

そういう人は、もしも自分の好むものがあれば、当然それを自分の喜びと
するでしょう。ですから愛するものが目前にあれば、それを行うのが
明らかに不合理で原則に反することが分かっていても、彼にとって
それは強い誘惑となります。恐らく彼はそれを実行してしまうでしょう。

逆にもし彼の心がその時 冷淡、憂鬱で、意気消沈しているならば、
彼が本来なすべきことも果たさないかも知れません。何故なら、彼の
感情が原則について行かないからです。

このように、もしも神の子供達が自分の感情を少し観察して見るならば
いかに自分の感情が変わりやすいものか、また感情にしたがって歩く
ことがいかに危険であるかを認識するでしょう。

もし、彼の感情や趣向が「神の原則」に適合する場合だけそれに従い、
自分の感情に合わないならばそれを拒絶する、のであるならば、
それは全く霊的な生活とは言えません。
誰でも霊的な生活をしたいと願うなら全面的に瞬間瞬間、神の原則
のみに従って歩かなければなりません。


Sugar 私見:
先人は「霊には原則があり、感情にはそれが無い」と
言っているようです。確かに「聖霊が内住する自分の霊」に
従わなければ、私達は「実に勝手気ままな感情や自分の好き好み」or 
その時の「気分」に常に強く左右されながら生きるしかありません。

さてこの「気分」と言う日本語はその「感情の気ままさ加減」を
絶妙に言い表している言葉ではないでしょうか。実に私達の「気分」
は奔放です。それは時に私を全く無視しているかのようです。
一体このような「気分の源」はどこにあるのでしょうか。

この箇所において、先人は、それは「環境の影響である」と言われる
のですが、本当に環境のせいだけなのでしょうか。私的には「気分」は
「いわゆる環境」の背後に潜む「目に見えないある影響力」と関わりを
持つかも知れないと思っております。従って、仮にもし「気分にも原則
がある」とするならば、その原則は多分その様な「影響力達」が本来
持っている原則なのでしょう。そしてその原則とは「死と分裂」と言う
トンでもない「原則」であることを私達は知らなければなりません。
(実はこのテーマについてはある所で先人も語っておられます。)

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