2009年7月7日火曜日

感情に従って歩いてしまう理由

キリスト者が霊に従わず、感情に従って歩んでしまうのは
どうしてなのでしょうか。二つの理由が考えられます。

先ず、信者が霊に従って歩むことを真剣に願い、追い求めないからです。
少なくも真剣さがなければ、このことが達成されることはあり得ません。
ですから、この場合 当然彼は感情に従って生活するでしょう。

彼は感情が動き、それが衝動となるとき、仮にまずいと感じたとしても、
それをどのように否むべきかを知りません。
ですから結果、感情に流され、行うべきでないことを行ってしまうのです。
しかしそれでもその際、彼の霊の直覚に全く霊的な感覚が生じなかった
わけではないのです。しかし、彼のある弱さの故に、彼は感情に耳を傾け、
直覚を無視してしまうのです。
その時 感情は更に強まり、彼は全く自分を制御できなくなって
しまいます。しかし、実行した後で悔いるでしょう。


もう一つのケースは、既に霊と魂の相違を経験的に知っている信者です。
彼らは感情の影響を受けると、これは感情からのものだと分かり、
直ちにそれを拒絶します。

しかしながら、このような信者でさえ、感情に従って歩く可能性が
あります。それは「ある欺き」によるのです。彼の感情がしばしば
「霊的感覚を装う」からです。この場合、彼には外見上、彼の感情と
霊的感覚は全く同じに見えてしまいます。これは彼の「ある無知」に
起因します。ですから、ある程度 霊的な識別のある人でさえ、
感情に従って行動することは十分あり得るのです。


Sugar 私見:
先人はここで、二つの理由についての概要を語っているに過ぎません。
特に第二の理由に関しては 後に相当のページをさいて
詳細に述べております。

霊と魂の問題は、決して安易な問題ではありません。
そのことに言及された際のイエス御自身の真剣さを知ればそれが
分かります。しかしそのイエスの心からの言葉は、弟子達の頭の上を
風のように吹き抜けてしまったようです。彼らはその直後決まって、
自分達の間で誰が一番偉いのかと論じたのです。(あなたの魂を
捨てなさい、と言われた直後に)

私自身、この問題には少なくも「決してあきらめない
粘り強い真剣さ」がどうしても必要であると考えております。
真剣に叩かずして、どうして天国の門が開けてもらえる
(パラダイスに連れて行かれるではなく)でしょう。更にその上
洗礼者ヨハネのように、天国は「奪い取る」必要さえあるのです。
(マタイ11の12)

3 件のコメント:

鷲のように翼を張って さんのコメント...

ハレルヤ!
その粘り強さ、大好きです。主がとりこにされるんですよね。主です。ことをはじめられたかたが、完成されますから 感謝します。
すばらしい。

匿名 さんのコメント...

毎日主と関係を持つ事がどれだけ大事な事か再び知らされました。
知恵の欠けたものは神に願えとヤコブに書かれている通り。自分に頼ってはいけない(箴言3:5&6ですね。

Mr.Sugar さんのコメント...

鷲さん、饅頭さん、

バプテスマのヨハネのように

真にイエスを認識し(時には弱くなった

としても)最後まで悪の根源・サタンと

戦って行きたいものです。

神が私をあわれんで下さいますように。