2009年7月25日土曜日

「神に対する愛」の純度(1)

*二種類の「~のために」「~を通して」*
神の子供達の多くは、自分の愛する者が自分の霊的な成長に 
どんなふうに妨げになるかを認識しておりません。あるケースを
考えて見ましょう。キリスト者が他のキリスト者を愛するのは当然
ですし必要なことです。しかし、キリスト者への愛でさえ決して
「ある愛し方」に陥ってはなりません。その様な場合でも彼は 
神以外に「別の愛」の対象を持つことになるのです。
要するにそれも「愛の分割」に過ぎません。

ある日 信者が神以外にそのような愛を所有し始める時、彼は彼の中で
「自分にとっての神の重要性」が減少してしまったことを感じざるを
得ないでしょう。そのような場合、彼は神を愛していないのでしょうか。
いいえ、彼はある意味では やはり神を愛していると言えるのです。
しかし、彼が神を愛するその愛の内容は もはや「神ご自身を通して」
「神のために」神を愛するのではなく、キリスト者である
「その愛する者を通して」「その人のために」何とか神を愛する、に
変質してしまっているのです。

さてこの神に対する愛は真実と言えるのでしょうか。彼のために
命までも捨てられた神は本当にそのような彼の愛し方によって
満足出来るでしょうか。答えは当然、強い否です。

信者が「自分の愛する者を通して」「その人のために」神を愛する時に、
神と「その相手」をちょうど半分の量で愛することさえ不可能です。
どうしても彼の心は神よりも、その対象に、より多く注がれることは
避けられません。何故なら そもそも彼は 単に神を「その人を通して」
「その人のために」愛しているに過ぎないからです。

その間、その信者の命が成長することは決してあり得ません。彼の命は
必ず後退します。しかし一見彼の外観には何らの変化もないように見える
でしょう。従ってそれだけ、これはそのキリスト者にとって深刻な事態
であると言えるのです。

それでも なおかつ彼がもしも「あの人は信仰の上で私によい影響を与えて
くれるので・・」と彼の理由を申し立て、その「愛」を「潔く捨てる」
ことなく時間が経過して行くならば、不思議なことに、その相手は彼に
対して別の影響を与え、今度は最悪「神に対する彼の愛を失わせる」可能性
さえ生ずるかも知れないのです。何故なら彼は 神を「その人のために、
その人を通して」愛して来ただけなので、その人の影響でたやすく彼の総て
が揺れ動いてしまうからです。そこにはどうしても肉の介入は
避けられません。彼はそれまで とても危うい信仰の土台に立って来た
ことは言うまでもありませんが、実はそれ以上に危惧される点は、それらは
極めて大きな不純を抱えた「神への愛」であるという事なのです。

もう一点残念ながら、以上述べたような状況はしばしば
今日多くのキリスト者の群れとそのリーダーとの間にも十分起こり得る
一つの傾向であることを申し添えて置かなければならないでしょう。

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