2009年7月21日火曜日

主に私の愛を献げること

キリスト者の経験において、おそらく最も難しい事は愛情に関して主に
服従することでしょう。しかしながら神は 何と他の何物よりも 私達の
愛情に最も注意を注がれるのです。神の「要求」は、信者が先ず自分の
愛を100パーセント神御自身にのみに献げ、「真に神を私の神とする
こと」であり「真に主を自分の主とすること」です。

私達はキリスト者がしばしば献身について語るのを聞きます。私達は
献身が 信者の霊的生活への第一歩であることを知っています。それは
霊性の到着点ではなく、献身した時に初めて「霊性への行程」がスタート
すると言うことです。献身は私達を聖別されて行く場所に導いてくれる
のです。従って先ずは献身(即ち自分の「総て」を主に献げること)が
なければ、将来 霊的な生活が存在する可能性は全くあり得ません。

さて私の献身において、献げるべき最も大切なものは私の愛情です。
キリスト者の献身が本物か否かは、真に私の愛を主に献げているかどうか
で分るのです。愛情は献身の試金石です。実は自分の時間、金銭、能力、
職業その他多くのものを主にささげることは比較的容易です。しかし、
私達の愛情を実際的に「主に献げ尽くすこと」は
決して容易なことではありません。

もちろん私達が「キリストを愛さない」などと言うはずはありません。
むしろ私達は気楽に「私は心から主を愛します」と叫びます。しかしながら
私は、主を愛していることは愛してはいるが、実は主以外の誰かを(或いは
何かを)第一とし、主を第二第三としているのかも知れないのです。また
主を愛するとは言うものの、本当は単に「自分自身の愛情」をひたすら
見つめ、それを後生大事にしているだけなのかも知れません。ということが
事実であるならば、私はまだ主を「完全には」愛していないのです。

私が持つべき極めて重要な認識は、もしもキリスト者であるならば、
何よりも最初に、主なる神に対して私の愛情が100%献げられねば
ならない、と言うことです。もしもそうでないのであれば、事実として
私は神に対して「まだ何も献げていない」ことになるのではないでしょうか。

☆       ☆

私の手元に持っている愛が、神にだけ100パーセント献げられるので
あれば、私の元に 愛はもう1パーセントも残っていないことになります。
その時、神以外に献げる私の手持ちの愛は全くゼロです。ですから
私の愛の対象は全部神です。私は完全に神しか愛しません:
神は先ずこのことをキリスト者に求められます。

しかし、不思議なことですが、その時になって初めてキリスト者は
「他人を自分と同じように愛する」ことが出来る筈です。何故なら
その時あなたは自分自身を完全に離れ、ひたすら純粋に「神のために、
神の中で、神の愛によって」人を愛するようになるからです。

大筋以上のようなことを彼は後のページで語っております。
もしもそれがキリスト者にとって可能な実際であるならば、
それこそあの「山上の垂訓」の成就ですね。

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