キリスト者の経験において、おそらく最も難しい事は愛情に関して主に
服従することでしょう。しかしながら神は 何と他の何物よりも 私達の
愛情に最も注意を注がれるのです。神の「要求」は、信者が先ず自分の
愛を100パーセント神御自身にのみに献げ、「真に神を私の神とする
こと」であり「真に主を自分の主とすること」です。
私達はキリスト者がしばしば献身について語るのを聞きます。私達は
献身が 信者の霊的生活への第一歩であることを知っています。それは
霊性の到着点ではなく、献身した時に初めて「霊性への行程」がスタート
すると言うことです。献身は私達を聖別されて行く場所に導いてくれる
のです。従って先ずは献身(即ち自分の「総て」を主に献げること)が
なければ、将来 霊的な生活が存在する可能性は全くあり得ません。
さて私の献身において、献げるべき最も大切なものは私の愛情です。
キリスト者の献身が本物か否かは、真に私の愛を主に献げているかどうか
で分るのです。愛情は献身の試金石です。実は自分の時間、金銭、能力、
職業その他多くのものを主にささげることは比較的容易です。しかし、
私達の愛情を実際的に「主に献げ尽くすこと」は
決して容易なことではありません。
もちろん私達が「キリストを愛さない」などと言うはずはありません。
むしろ私達は気楽に「私は心から主を愛します」と叫びます。しかしながら
私は、主を愛していることは愛してはいるが、実は主以外の誰かを(或いは
何かを)第一とし、主を第二第三としているのかも知れないのです。また
主を愛するとは言うものの、本当は単に「自分自身の愛情」をひたすら
見つめ、それを後生大事にしているだけなのかも知れません。ということが
事実であるならば、私はまだ主を「完全には」愛していないのです。
私が持つべき極めて重要な認識は、もしもキリスト者であるならば、
何よりも最初に、主なる神に対して私の愛情が100%献げられねば
ならない、と言うことです。もしもそうでないのであれば、事実として
私は神に対して「まだ何も献げていない」ことになるのではないでしょうか。
☆ ☆
私の手元に持っている愛が、神にだけ100パーセント献げられるので
あれば、私の元に 愛はもう1パーセントも残っていないことになります。
その時、神以外に献げる私の手持ちの愛は全くゼロです。ですから
私の愛の対象は全部神です。私は完全に神しか愛しません:
神は先ずこのことをキリスト者に求められます。
しかし、不思議なことですが、その時になって初めてキリスト者は
「他人を自分と同じように愛する」ことが出来る筈です。何故なら
その時あなたは自分自身を完全に離れ、ひたすら純粋に「神のために、
神の中で、神の愛によって」人を愛するようになるからです。
大筋以上のようなことを彼は後のページで語っております。
もしもそれがキリスト者にとって可能な実際であるならば、
それこそあの「山上の垂訓」の成就ですね。
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