2009年7月27日月曜日

神の意図

以上のように見ると、キリスト者が他の人を愛する必要はない
のでしょうか。もちろん、そんなことはありません。兄弟達を愛し、
敵をさえ愛するように、との聖書の繰り返された命令を見るだけでも、
キリスト者が他の人を愛さないのは 神の意図でないことは明白です。
それでは神の意図はどこにあるのでしょうか。それは:

あなたが他の人を愛する時、神はあなたに対して、
「あなたのために」「あなた自身によって」ではなく、
「神ご自身のために」また「主ご自身の中」だけで
愛して欲しいのです。

もしもそのようにして私達が人を愛することが出来るならば、
その時には、もはや「私起源の愛情」に その地位は無いでしょう。
私の生まれながらの情愛はその力を完全に失っているでしょう。

即ち神は 人々に対する私達の愛において「主ご自身の愛の力」の
完全な支配を受けて欲しいのです。それが成就されるならば、
神が私達に ある人を愛して欲しい時 私達はそれに従うことが
出来ます。また神が私達に ある人との関係を終わらせて欲しい
場合には、私達は直ちに それにも従うことが出来るのです。

このようなキリスト者の姿は その信者における十字架の現れです。
私達の内に、聖霊によって、キリストの永遠の死が深く適用され、
私の魂の命を「キリストの死に渡す」ことを真に経験する時にのみ、
信者は「自分の愛情、天然の情愛」において、
「自己を失う」ことが可能となるのです。

私の魂が死を経過する時、もはや私の愛情が誰かに粘りつくことは
ありません。その時、私は ただ「神の命令」によって導かれます。
私の魂の命が 深い死の段階を経過して初めて、
私達は 生来の「私発の」愛情において あたかも
死んだように力を失うのです。

その後において、私達が他の人々をどのように「新しく愛するか」
について神は 私達を直接導くことが可能となります。そして神は
私達に、過去私達が愛した人たちとの「全く新しい関係」を
「御自身の中で」開始させるのです。

天然の愛情関係はことごとく終結しなければなりません。
私達の愛情は総て十字架の死の中を通り、今や
復活の領域の側(がわ)で 他の人々との新しい関係へと
入って行くべきです。

そのような生活は、私達にとって何と難しく見えることでしょう。
しかし、このように生きた人だけが、
これが何たる祝福であるかを
真に経験しているのではないでしょうか。

2 件のコメント:

千葉のM さんのコメント...

なんと魂の命で生きている「自己」、「外なる人」は強固なのでしょうか。日常生活の中でこの「自己」を知るバローメーターは三つあります。①それは究極的に自分のためかどうか?(自分の感情、感覚を満たすためかどうか) ②それは自分の力によって成そうとしているかどうか? ③それは自分(自分の方法、手段)にしたがって成そうとしているかどうか? です。

どうか聖霊が私たちの目を開いて、私たちが最高に霊的な生活、感覚の生活であると信じている中に、多くの自己がなおも存在しているこちを見させてくださいますように!

私たちが感覚に満ちているとき、私たちの命は自己に焦点づけられ、なおも自己のための楽しみを切望していることを、主が私たちに見せてくださいますように!

この自己を見出した時、勇気を持って、徹底的にこの自己を日々十字架に渡すことができますように!

鷲のように翼を張って さんのコメント...

菅原さん、M兄弟感謝します。
なぜか、今とてもうれしい慰めを感じています。